ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

ブログ引越し

DTIブログが来る12月19日をもちまして終了となります。
つきましては下記に引っ越しましたので引き続きご愛読くださるよう
お願いいたします。



http://tamanawasekiya.blog.fc2.com/


ー情報局ー

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−75)
 公領の状況を記すには在庁官人抜きには語れない。在庁官人は国衙の役人なのだが、地方豪族がなる例が多くかなり高い地位につく例があった。石井進著「鎌倉武士の実像」では常陸国の例が記載されていて、国衙の在庁トップは大掾ということになっている。常陸国は親王任国なので国司相当は「介」であるから大掾が在庁トップというのはうなずける。上総国も親王任国であったが、上総氏が権介を代々世襲していた。同様に相模国では三浦氏が介を、下野国では小山氏が権大介を代々世襲していた。なぜ、地方豪族が在庁官人になっていったのか、しかもかなり高い地位である。国衙の二大機能は土地管理・徴税と軍事・警察である。土地管理・徴税には軍事が欠かせない。不法な行為による公領や山野河海の占拠を防止・排除するには実力行使が欠かせない。郡司の子弟等に軍事の構成員となることを公認した「健児(こんでい)」制があったが全国一律で見た場合どうなったかはっきりしないようである。石井氏は国衙の軍事警察組織について国司の私的従者と在庁官人ならびに書生が国司の直属軍で、さらに任国内の豪族を中央有力貴族に願い出て太政官符による追捕使等に任命してやる等の便宜を図り、その見返りにその武力を国衙の武力に取り込む工夫をしていたようである。さらには上述のごとく在庁官人に取り立て常陸国では「大掾職」を坂東平氏國香流が世襲するに至る。このような例は下野国の小山氏が「押領使職」と共に「権大介職」を代々世襲した例が挙げられている。上総国の上総介や相模国の三浦介も同様であろう。
 
                         ―黒子―

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−74)
 律令制の時代は特に貴族の場合、国家からの給付が保障されていて、極端に言えば私有財産を蓄える必要がなかった。ところが律令制とともに始まった班田制が廃絶されると、朝廷は「名」への切り替えでなんとか給付を維持しようとした。しかし、国司も国務請け負いに変わると、請け負うからにはリスクがあるわけだから、なにがしかの利益がなければ請け負う者はいない。利益が追求されればされるほど、給付にまわる額は減少するわけで、給付に頼ってばかりにゆかなくなる。知行国とか荘園立荘時の公領割きとり等は給付減少の代償のようなものとも考えられる。
国司がどん欲に利益を追求した例を示そう。時は藤原氏全盛時代で藤原道長が摂政についていた時の話である。この当時はまだ荘園がそれほど大きな比重を占めていなくて、道長の家政もどちらかといえば公領に依存していた。長和五年(西暦1016年)七月、京都に大火が発生し、道長の土御門邸も焼失した。ところが、道長邸の再建に新旧の国司が「成功(じょうごう)」を競い合った結果、旧邸よりも立派な屋敷が再建された。しかも、建物だけでなく、家具調度に至るまで超一級品が揃えられた。なかでも摂津源氏の源頼光は長年の複数国受領歴任で蓄えた富で調度品を全て用意したことで有名になった。頼光にしてみれば摂関家の従者として当然のことをしたまでのことだったともいえるが。ところで国司が荘園収公や実力行使によって、つまり武力の裏付けなくしては任国から利益を得られない状況であったことも事実で、国に備わった武力に加えて、自前の武力を引き連れて補任するわけである。さらに、国には私的に武力を備えた武力集団(単独から複数人)が存在し、ある時は武力衝突もしたが、次第に国司の武力集団に吸収されるようになる。
しかし、在地の武力集団は開発領主であることも多く、国司にだけ甘い汁を吸われることに反発して国司の頭越しに中央の貴族と結びついて荘園立荘を企てた。勿論、周辺の公領を割きとっての立荘であるから、国司側にとっては二重の痛手になってしまうのである。当初こそ荘園からいくばくかの税が期待できたが、院政期にはいると不輸(無税)不入の荘園が登場し、益々国司であることのうまみがなくなってゆくのである。このことは明らかに公領に依存していては貴族、大寺社の財力を圧迫し、私的に荘園に依存する流れになってゆく。
せっかく奪ったものを他人に取られたくないから、「職」を設定して親から子へ伝領する動きが生ずる。結婚も婿取り婚から嫁取り婚に変わって、やがて「家」の概念が生じていく。いわゆる家産国家へと変貌して行く。嘗ては出自によって高位の位階や官職が一部の貴族に独占されてきたが、公領の減少によってその既得権の価値が薄れていった。こういった流れが底流にあって、十世紀以降のもろもろの変化や事象を見てゆく必要があると思う。政治に影響を及ぼす貴族階級や寺社などの宗教従事者階級に、時代が下るに従って武士階級が加わるのである。平家は自分たちが武士階級であるとの認識を忘れて、多くの武士を失望させ、わざわざ低落階級である貴族をめざした。にもかかわらず最盛期には知行国こそ三十三カ国を領有したが荘園の本家職はすくなかった。    ―黒子―
 

 

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−73)
寄進型荘園が立荘される時、周辺の公領が取り込まれてしまうことが一般的であった。
どうしてそのようなことが出来たのであろうか。開発領主だけではそのようなことが出来ず、国司に対抗できる中央の実力者の力が必要であった。但し、それだけでは不十分で、理屈が必要である。その理屈とは「加納」であるという。荘園と公領が境界を接している場合、境界周辺で耕作をしている荘公の農民からすれば、既得権を奪われことになるのであるから、これを救済しなければならぬというのが理由なのであろう。すなわち荘園側にいる農民が公領側に出作する公領田や荘園側に入作する農民の耕作する公領田を荘田と主張し、荘園に取り込んでしまうのである。取り込まれた公領田を加納(加納という地名が各地にあるのはここに由来しているのではないか)田という。寄進型荘園というのは、単に開発領地だけにとどまらず、その周辺の公領を取り込むため、開発領主と中央実力者が結託して立荘したものである。寄進型荘園の他にもさまざまな荘園が公領を圧迫したがここでは割愛したい。次に公領自体の問題を指摘しておこう。別名や保等は律令体制時には存在しないものであったが、開発領主の出現で開発もしくは荒田の再開発が行われ、公領の在り方に少なからず影響を与えた。そして何よりも大きかったのは税の取り方の変更である。律令時代は人を基準にした税の徴収であったものが、土地の面積に比例させる方式に代えた結果、従来の「郷」(50戸程度の規模)をいくつかを束ねて「郡」とする行政組織が成り立たなくなったことである。「名制度」を実施していくと、従来の郷の領域ではぴったりとは合わなくなって、新たな郷を編成しなければならなくなった。つまり大事なのは郷であってこれをしっかり押さえることが重要になった。もう一つは郷の中に開発領主が登場し、自ら開発(荒田の再開発を含む)する一方百姓の治田を買得・集積して私領を拡大させ、さらには郷司職を手に入れ、事実上郷を支配することで、郡の支配に従わなくなり、こういった郷が増えると郡の支配機能は失われ、国の下は郡も郷も、さらには「保」などが並列に存在する状況になってしまった。
律令制では国府の官制は四等官制で国司が一等官で「守(かみ)」、二等官が「介(すけ)」、三等官が「尉(じょう)」、四等官が「目(さかん)」であるが、実務にたけている分国司にすれば扱いにくいという事情があって、田堵等を重用する傾向があった。従って、在庁官人の中には田堵出身者が多く存在した。このような状況下で公領に地頭が補任されると、検断権(警察、裁判権)に於いて国司並みの権限を有するので武力を背景に国司や郡司、郷司と衝突する場面も想定される。
                 ―黒子―
 
 

3.(1)土地所有の歴史(その8−72)
本稿では鎌倉時代が産み落とした地頭の生態を追ってみたいと思う。
地頭には鎌倉幕府が成立した時に頼朝が後白河法皇に認めさせた本舗地頭と、承久の乱後に朝廷に認めさせた新補地頭とがある。いずれの地頭も謀反人蹟の荘・郷(公領)に置かれた。本舗地頭については明確な権利が明文化されてはいないので確定的なことは言えないが、警察権、裁判権、年貢収集権であって、下地進止権(土地の面積を確定したり、百姓が逃亡したり絶えた場合に新たに百姓を配置すること)を実態として獲得して行くことであった。
それでは本稿から公領における地頭の行動を追ってゆきたいと思う。それには地頭が補任した当時の公領の実態を確認しておかねばならぬであろう。平安時代10世紀ごろになると律令国家開始とともに始まった班田制が農民の偽籍、浮浪、逃亡などによって行えなくなり、人を対象にした租税の集取をあきらめ田地の面積に基づく租税集取に切り替えられた。それには当時台頭してきた豊富の百姓(これを田堵といった)に一定面積の公領の耕作を請け負わせる所謂「名」制度の導入が始まったのである。人をとらえることが出来ぬなら土地を基準に租税を賦課する方式に切り替えたのである。耕地面積は豊富の百姓の実力に相応して決められたが、請け負った租税がきちんと納められるのであれば、その耕地をどのように分割して、どのような者に耕作させても良かった。そしてもう一つの変化は国司の役割である。田堵が契約に基づいて所定の年貢を納めるのであるから、国司はこれを取りまとめて中央政府に納めれば済むはずだが、一方で郡司職、郷氏職といった官職の私財化、荘園や私領の増加、「豊富の百姓」と貴族の結託による未墾地の囲い込みなど公領の減少が進む状況にあり、国司に「検田権」を与え、一国の土地管理を強化させると同時に一国の公領からの年貢総量を請け負わせる国務請け負い政策をとり始めていた。こうなると既得権益を侵害される郡司、郷氏、在庁官人、田堵等が国司の不法を訴えるケースが頻発していた。さらに十一世紀、院政が行われたころ、開発された耕地に周辺の公領を取り込んで、開発領主が中央の有力者に荘園として寄進し、さらにこの荘園を安定化させるため、権門勢家に再寄進するという念の入れようであった。立荘には院庁下文、もしくは民省符が必要であったが、国司が在職期間だけの国司免判も発給された。公領の当時の状況を説明するために荘園のことまで触れたが、律令制下に公領であった土地の状況も大きく変化した。これについては次稿で述べる。
                  ―黒子―
 
 

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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