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旧鎌倉だけが鎌倉じゃない!

旧鎌倉だけが鎌倉じゃない!

 このブログにも初めの方に、いかに玉縄地区が鎌倉の中で疎外されているかを書いた。
住民だけでなく、行政も議会も鎌倉と言えば旧鎌倉のことだと考えている。
最近といってもすでに二〜三年前になるが、景観法に基づき、鎌倉市全域を景観計画の区域に指定したのはいいとして、旧鎌倉およびその周辺を古都景域、それ以外を都市景域に分類した。極めて杜撰な分類である、というかそうしたいのであろう。旧鎌倉の中にだって都市的景観があるというのに、である。古都景域という言葉の響きからは開発の抑制と理解するし、これに対し都市景域はあらゆる開発を想定されてしまう。行政の説明会の席で、ほかの分類法を具体的に提案もしたが受け入れてもらえなかった。我々のブログのタイトルを敢えて“ここだって鎌倉だ!断ちきるな関谷・玉縄みどりの輪”としたのはこんな危機感を表現したかったからだ。
 鎌倉市制70周年の記念に公募で鎌倉市の(鎌倉のではない)愛唱歌が作られたので紹介しよう。

        1 耳をすませば古き寺々ゆかしい歴史
遠く聞こえる御前の舞よ 町を歩めば緑が香り
先祖のまなざしあたたかく こころやすらぐわれらの鎌倉
        2 ひとみ閉じればやさしい大仏微笑みうかべ
          みんなの平和見守っている つなぐ手と手に未来がひかり
          こころとこころ結ばれて ああ夢ひかるわれらの鎌倉
        3 浜辺歩めば海美しくふるさとひかる
          七里ケ浜よ豊かな海よ ここからはるか水平線に
          宇宙に続く夢がある 未来始まるわれらの鎌倉 

鎌倉市の愛唱歌として一見それらしく見える。しかし、御前の舞(鶴岡八幡宮での)、大仏、七里ケ浜とくれば旧鎌倉だけの名所旧跡に限定されているではないか。鎌倉市の愛唱歌であれば全ての市民にとって身近で親しみやすい詞でなければならないのに、そうゆうふうにはなっていない。作者には責任はない。これを選定した者、最終的には鎌倉と言えば旧鎌倉しか頭にない行政の責任である。
同じような趣旨のことを書いているサイト(09/09/11日(金)の記事)
も参照していただきたい。


                   黒子
 
 
http://www.okada-report.jp/linkp01.htm

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−5)
 薬子の変で活躍した武将文室綿麿はその功により参議にとりたてられ、大蔵卿、陸奥出羽按察使にのぼった。桓武朝晩期に造作と軍事が中止され、征討はしたものの律令制支配が行われないままになっていた地域を、綿麿は弘仁二年(西暦811年)正月、陸奥国に和我(わか)・薭縫(ひえぬい)斯波(しわ)の三郡を置いて、律令の支配下に組み込んだ。綿麿はさらに、同年二月、帰順しない爾薩體(にさて)、弊伊(へい)の二村を攻撃するために、陸奥・出羽の兵二万六千人の徴発を申請、朝廷はこれを許可し、抵抗勢力の一掃を命じた。四月には綿麿を征夷将軍とし、出羽守大伴今人、鎮守将軍佐伯耳麿らを副将軍に任命し、当初の予定通り六月、征討に向かった。10月5日、征夷将軍文室綿麿が蝦夷征討において多大の戦果をあげたことを報告し初期の目的を達成したことになっている。十二月には綿麿以下の功を賞し授位を行うとともに、征討後の民生安定策として、鎮兵の数を減少し、陸奥の百姓に四年間の税免除を施した。
 征討に要した兵力は実際には二万人弱に増援千百人だったとか、兵力が整わないので一年延期の命令がでたが、二千人をなんとか捻出し、千百人の増援で曲がりなりにも目標を達したなど出典によって大幅に異なる。今後の宿題にしておきたい。
 奈良時代末から続いた蝦夷地の律令制編入の大事業はこの征討で一旦一区切りをつけて扱う場合がほとんどであるが、この後も文室綿麿が再度征夷将軍に任命されたと記述している資料もあるので留意したい。
 宝亀五年(西暦774年)に始まった陸奥・出羽の騒乱に当時按察使兼陸奥守・鎮守府将軍大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられてから弘仁二年(西暦811年)、文室綿麿の蝦夷地の一応の征討までを世に三十八年戦争という。三十八年戦争の終結をもって蝦夷地の騒乱は鎮静化(出羽に於いては衝突があったものの)したが、律令制の弱体化が始まったとの見方もある。
黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−4)
 延暦十三年(西暦794年)、大伴弟麿を征夷大将軍とする十万の征討軍を派遣し、かなりの戦果をおさめたが、蝦夷の拠点である胆沢の地を攻略することはできなかった。そこで桓武朝は第三次の征討軍派遣を計画することとなる。
まず、延暦十五年(西暦796年)1月25日、坂上田村麿を、陸奥出羽按察使兼陸奥守に任じ、更に同年10月27日、鎮守府将軍を兼ねさせた。軍事、行政の一体化を図るのが目的である。東国を中心に九千人の農民を伊治城周辺に強制移住させた。
延暦十六年(西暦797年)11月5日、坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、延暦二十年(西暦801年)2月14日、征夷大将軍坂上田村麿に節刀を賜った。征討軍は四万の兵力ながら強力な軍隊で着々と戦果を上げ、ついに胆沢の地の攻略に成功、同年9月27日、坂上田村麿は蝦夷征討を報告、10月28日、節刀を返還した。
延暦二十一年(西暦802年)1月9日、坂上田村麿を造陸奥国胆沢城使に任じ、胆沢城を造らせ、鎮守府を置き、東国の浪人四千人を配置した。さすがの蝦夷の猛将大墓公阿弖利為は同年4月15日、盤具公母礼等蝦夷五百人を率いて降伏した。
延暦二十二年(西暦803年)3月6日、胆沢の前衛となる志波城を築造するため坂上田村麿を派遣し、延暦二十三年(西暦804年)1月28日、第四次の征討を行うべく坂上田村麿を再び征夷大将軍に任命した。しかし、平安京の造営と蝦夷征討で人民は疲弊していた。桓武天皇もこれ以上の造作と軍事の継続を徳政にはならぬと決意し、延暦二十四年(西暦805年)十二月、これらを打ち切ることにした。従って、坂上田村麿による第四次の蝦夷征討は行われなかった。ただ、後日談があって、薬子の変で上皇方が東国に逃れるのを要撃する部隊の責任者を命じられていた大納言坂上田村麿が、平城上皇方に加わったとして監禁されていた文室綿麿を起用するよう嵯峨天皇に願い出てかなえられ、文室綿麿は喜び勇んで上皇方要撃部隊に加わったというエピソードがあったが、その文室綿麿が次なる蝦夷征討の征夷将軍に任じられるという巡りあわせになるのである。
                 黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−3)
 延暦八年(西暦789年)の桓武朝第一次の蝦夷征討は失敗に終わった。しかし、諦めたわけではなかった。すぐさま次の征討の準備に取り掛かった。延暦九年(西暦790年)閏3月、東海、東山両道に、革甲二千領と軍粮の糒(ほしい)十四万斛を準備させた。翌延暦十年(西暦791年)1月には、百済王俊哲・坂上田村麻呂等をその確認に遣わす念の入れようであった。同年7月、大伴弟麻呂を征夷大使に、百済王俊哲等を副使に任命した。第一次では東海・東山両道から約五万の兵力を動員したが、第二次の征討軍は、第一次の二倍に当たる十万の兵力を動員することを目標とし、しかも全国すべての人民を対象とし、甲も作らせた。
京への遷都が進む中、 延暦十三年(西暦794年)正月元旦に大将軍大伴弟麿に節刀を授け、大軍は蝦夷地を目指して出発した。六月に副将軍田村麿らの指揮によって、征討が開始されたが、十月には戦闘が終わったらしく、大伴弟麿から戦勝の報告が入った。しかし十万の大軍をもってしても、胆沢を攻略することはできなかった。このことは、蝦夷の抵抗がいかに頑強であったかを物語っている。
                黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−2)
 紀古佐美を征討大使とする征討軍が多賀城に集結し、延暦八年(789年)三月九日に進軍を開始した。四月六日の現地からの報告によると、多賀城を発した征討軍は、三月二十八日には衣川(現在の岩手県平泉町)を渡って三か所に軍営を設けたが、それから一カ月以上もそこに留まったままであった。蝦夷によって情報網を破壊され、どこをどのように攻めたら良いのか分からなかったようだ。いたずらに軍粮を浪費し、なすすべを知らない征討軍に長岡京の政府は苛立っていた。それから二カ月ほどした六月三日に届いた報告で、ともかく進軍したことを知らされた。その報告によるとえりすぐりの兵六千人を三隊に分け、北上川を渡河したのである。前軍は蝦夷軍に阻まれて渡れなかったが、他の二軍は渡河に成功した。遭遇した蝦夷軍と戦い、優勢と思い込んだ征討軍は進撃をしたところ別の強力な蝦夷軍に遭遇、退却しようとしたところ、更に別の蝦夷軍に退路を断たれ、混乱した征討軍は隊伍を乱して敗走した。征討軍は蝦夷軍を率いる阿弖流為(あてるい)の巧みなゲリラ戦法に翻弄され、なすすべなく敗退した。
六月九日、大きな打撃を受けた征討軍は、軍粮等の補給が困難であることを理由に政府の指示を待たず解軍すると報告してきた。よほど軍粮等が困窮し、切迫していたのであろう。
九月八日帰還した征討軍責任者の喚問が行われ、責任者の処罰が発表された。なぜか最高責任者たる征討大将軍紀古佐美は処罰を免れている。
               黒子

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