ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その4)
 日本列島では弥生時代にいたって産業革命とも言うべき本格的な農耕(日本列島では水稲耕作)が始まった。農耕は作物の種類によって一定の規格の土地を必要とした。しかし、古代においてはこの土地を「所有」するためには戦争が不可避であった。その上何代にもわたる奴隷的身分が生じたことは不幸な出来事であった。次ぎの古墳時代に大和朝廷が成立するが、残念なことに大和朝廷成立前後の中国の状況は、晋(西晋)が支配していた華北の地に遊牧民族が侵入し、五胡十六国時代に入り、華北を追われた漢民族は江南の地に逃れざるを得なかった間、混乱からか日本列島の状況を記録した史書が残されなかった。江南の地に逃れた漢民族は西暦317年晋(東晋)王朝を再興した。西暦420年東晋が滅びて宋が建国され、一方、五胡十六国を平定して西暦386年北魏が成立し、これより南北朝時代を迎える。中国の史書に倭国が再登場するのは南朝の宋の時代で宋書に西暦413年倭王讃の名が見える。西暦421年倭王讃は宋の皇帝から称号を授かるが、讃を含めて次代以降の所謂倭の五王たちは列島の支配者であるだけでなく朝鮮半島の軍事権、行政権をも認めてもらおうとしていた。朝鮮半島はどうであったろうか。西暦346年馬韓では百済が興り、西暦391年辰韓に新羅が成立した。弁辰は統一せず、名称が変わって伽耶と呼ばれた。この伽耶には倭国の出先機関があって、以前から辰韓による侵食を受けていたため西暦369年倭―百済連合軍が辰韓を攻めほぼ卑弥呼時代の支配域を回復した(百済記)。中国が衰退すると高句麗が南下を始め西暦313年楽浪、帯方2郡を奪ったことは既に書いたが、更に百済、新羅、伽耶諸国を飲みこもうとしていた。この頃の状況は中国の史書に記載がないが、第十九代高句麗王の好太王(広開土王)碑に倭との交戦の記録が残された。西暦391年倭軍は高句麗軍と戦っている。西暦400年倭軍は高句麗軍の攻撃により朝鮮半島から撤退を余儀なくされ、西暦404年倭軍は帯方郡に出兵したが高句麗軍に敗北をきした。大和朝廷が磐石でなかった時代になぜここまで朝鮮半島にこだわったのか不思議だが、朝鮮半島を諦めてなかったことは倭の五王がしきりに朝鮮半島の軍事権、行政権を宋の皇帝に願い出ている事からもわかる。ここでなぜ倭国が朝鮮半島に出向いての軍事行動に本稿がこだわるかと言えば、後々白村江の戦いで、唐・新羅連合軍特に唐の艦隊との交戦に敗れたことがよほどショックで、ひたすら防衛力強化を急ぎ、国内体制の刷新が愁眉の急を告げ、律令国家体制構築へと急ぐ中で土地政策の革命的公地公民制へとつながって行くきっかけとなったからである。日本列島では3世紀後半奈良盆地に大和朝廷が誕生し、4世紀半ばには東日本にまで勢力を拡張していった。大和朝廷の大王は各地の豪族(弥生時代の国王)により共立されていたが、5世紀後半になると畿内勢力が優勢になり、各地の豪族が支配される状況になった。大和朝廷が代を重ねるなかで王統の途絶えが二度発生したが、その都度分家から王を立てて危機を乗りきり飛鳥時代に入っていった。
                    黒子

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