ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その5−1)
 6世紀、大和朝廷は氏姓(うじかばね)制度に基づく有力豪族によって支配体制を固めていた。一方、地方の豪族には国造(くにのみやつこ)という地位を与え、領地の支配権を認める一方で、大和朝廷の支配に服させた。大和朝廷は地方に直轄地である屯倉(みやけ)を増やし、地方の支配を強めて行った。列島の支配圏は南はほぼ九州全域から東は東北南部、信越あたりまで及んでいた。
 中央では当時他国神であった仏教の受容をめぐって有力豪族の蘇我氏と物部氏が対立していた。そんな関係を更に悪化させた王位継承問題での意見対立が追い討ちをかけ、ついに両者の合戦に発展し、西暦587年曽我氏、厩戸王陣営が物部氏を滅ぼした。以後全盛を極めた蘇我氏であったが、西暦645年中臣鎌足と中大兄皇子によって蘇我入鹿が暗殺(乙巳の変)され、入鹿の父蝦夷も自害して蘇我氏は滅んだ。中大兄皇子はすぐさま大王(天皇)に権力が集中する体制を構築し、所謂「大化の改新」と呼ばれる施政方針を打ち出した。その中身は公地公民制、中央集権体制、班田制、税制改革である。しかし、これらの方針は直ちに全てが実行に移されたわけではなく、本格的な施行は西暦701年成立の大宝律令まで待たねばならなかった。中大兄皇子体制下での朝廷の勢力拡大は日本海側の秋田、青森、北海道南部に達した。
 朝鮮半島では高句麗、百済、新羅が夫々凌ぎをけずっていて、すきあらば相手の領土を侵食しようと狙っていたが、特に伽那は統一国家でなかったこともあり、新羅、百済から狙われやすく、既に百済側の一部は百済に吸収されていたところへ、西暦562年新羅によって任那を併合されてしまい、倭国は完全に朝鮮半島から締め出されてしまった。一方中国はながきにわたって南北朝時代が続いたが、西暦581年隋によって統一が成し遂げられた。隋はすぐさま高句麗を攻め前漢以来の領地回復を図ろうとしたが、高句麗の反撃にあって失敗し、更に農民の反乱に遭い、後の唐王朝高祖により西暦618年に滅ぼされた。西暦642年百済が新羅に攻め入って任那を攻略した。ところが唐の冊封体制下にあった新羅が唐に、百済を攻撃するよう要請した。唐は隋同様高句麗を攻めていたが、うまくいかなかった経緯があり、百済を征服してここを高句麗攻略の拠点にして南北から高句麗を挟撃する戦術を思いつき、新羅の要請を受け入れた。西暦660年唐・新羅の連合軍によって百済は滅ぼされた。百済は再興を図るため倭国に救援を要請した。倭国は百済と同盟関係にあったことおよび任那回復は歴代大王の懸案であったことからこの要請を受け入れた。西暦663年倭国の中兄皇子は朝鮮半島に大軍を派兵したが白村江で唐の水軍に遭遇し敗れてしまった。かくて百済の再興は完全に閉ざされた。百済を手に入れた唐は西暦668年高句麗を征服した。一時新羅の倭国征服を警戒した大和朝廷であったが、高句麗滅亡の同年同月、新羅は倭国に使者を送ってきた。新羅としては朝鮮半島統一を図りたかったが、倭国が敵対していては唐との闘争に支障があると踏んだのであろうが、倭国側は白村江での敗戦以来の警戒心を解かれる出来事であったであろう。その後新羅は唐の勢力を駆逐して西暦676年朝鮮半島を統一した。  黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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