ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その6−1)
 元明天皇は西暦710年都を平城京に遷した。この遷都計画は律令体制に入って間もなく浮上したらしく、文武天皇の時代から検討が進められていた。 
さて、飛鳥時代に始まった土地及び人民に関する公地公民制であったが、きっちり管理された上に税が重すぎると感じる公民が出てきた。奈良時代に入ると、この重税に苦しむ民は田を放棄して放浪する者が続出し、田地は荒れ果てた。対策として元明天皇治下慶雲三年(西暦706年)、税(租)の減免等慶雲の改革を実施した。また、人口の増加に対し口分田の班給が追いつかないという面もあったので、元正天皇は西暦722年、良田百万町歩開墾計画を打ち出した。しかし、当時の田地の面積は長い年月を経ていてさえ百万町歩はなかったから、この数字はほぼ実現不可能だったと思われる。そして次に打ち出されたのが、その翌年西暦723年の三世一身の法である。田地を用水路付きで開墾したものには三世代、既設用水路を活用して開墾をしたものには一代限りでの土地の所有を認めるという内容である。この法の施行でも事態は改善しなかったが、その理由等については次稿で記す。
 その5−1で述べたごとく中大兄皇子体制下(斉明朝)での朝廷の勢力拡大は日本海側の秋田、青森、北海道南部に達した(阿倍比羅夫の遠征)としたが、実は沿岸部の拠点を確保するに止まっていた。そして武力的な衝突は避け、蝦夷との共存を旨としていた。持統天皇の時には、蝦夷に対する仏教の布教も行われた。ところが律令国家になって、政府の東北政策に変化が出てきた。武力衝突も辞さない領土拡大策である。西暦709年巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍、佐伯石湯を征越後蝦夷将軍とし、遠江・越前など七カ国の兵を動員した。その結果ははっきりしないが、西暦712年の出羽国の建国や西暦714年から始まる柵戸(きのへ。城柵を設置して屯田兵が開拓・農耕を行う)の配置となっていくのである。蝦夷としては次々に設置されてゆく柵戸をみて不安を抱き反撥を感じたであろう。そうした状況の中、西暦720年9月、陸奥の蝦夷が反乱をおこし、按察使(あぜち。国司の治世お目付け役)上野毛広人が殺されるという事件が発生した。さらに、西暦724年3月、牡鹿・桃生方面の蝦夷が反乱を起こし、陸奥大掾(だいじょう、国司三等官)佐伯児屋麻呂が殺害された。政府はこの反乱を鎮めるため武力行使をもって臨んだ。藤原宇合(うまかい)を持節大将軍とし、小野牛養(うしかい)を鎮狄(てき)将軍に任じ、東北征伐に向かわせた。この時はかなり激しい戦闘の末政府側が勝利したらしい。
このような状況のさなかに、太平洋側陸奥国に西暦724年鎮守将軍大野東人が多賀城を築いた。多賀城には陸奥国府と鎮守府が置かれた。ここを蝦夷征討の一大拠点にして蝦夷地に対してにらみを利かせたのであろう。
                  黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その5−3)
 持統天皇の時代でもうひとつ大きな出来事があった。それは本格的な都市計画に基づく藤原京の建設で、西暦694年の、この地への遷都である。最近の研究では広さは国内最大の都であったという。律令国家建設に向けて着々と進行していった様子がうかがえる。そしてその締めくくりとして西暦701年文武天皇のときに「大宝律令」が完成した。班田収授制の具体的施行内容は次の如くであった。即ち、良民の男子は6歳になると0.24ヘクタール(2段)、女子はその3分の2の口分田を国家から班給され、6年毎に一旦回収されるが改めて班給され、死後は返納する事とした。ここから収穫した作物から税金を納めたが(男女とも米で収穫の3%)、他に男子は特産品等を納めさせられたり、庸役や防人として駆り出された。特産品の納入は遠隔の地であっても直接都に運搬しなければならなかったのでその負担は耐えがたいものであったろう。
班田収受制を施行するに当って、田畑の区画整理が行われた。一辺648m(360歩)の正方形の南北を一条、東西を一里とし、この正方形を36等分した一区画を坪(一町四方あるいは単に町と呼ぶのが一般的か)と呼んだ。坪を十等分した一区画を段とし班田の単位とした。この区画割りを条里制と言う。
貴族、支配階級に対しても位によって位田、位封等、職位によって職田、職封等が支給された。例えば正一位であれば位田は80町でその田地の地代(地子)として収穫量の2割をとり、そのなかから租の3%を差し引いた1.7割が収入になった。また正一位の位封は公民300戸(1戸平均5〜6人分)で租の半分と調、庸の全部を支給された。
官職に対しても職田、職封が支給された。太政大臣の職田(免税なので2割が収入)は40町、ところが職封はなんと3000戸(収入計算は位封に同じ)であった。これらの収入の外にもいろいろな名目で支給されるものがあったから、位と職位に伴う収入は合算されると、途方もない格差があった。現在価で正一位太政大臣がおよそ年5億円に対し最下級官人は年3百万円以下であった。神社仏閣にも神田、寺田が定められていて免税であった。なお下って西暦749年に定められた寺院の墾田地の上限が示され、東大寺で4000町から法隆寺で500町、国分寺僧寺1000町、国分寺尼寺400町と決められた。
行政区分は京の周辺五畿(大和、山背、河内、摂津、和泉)を特別区とし、地方を大きく七道(北から、東山道、東海道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道、西海道)に区分した。さらに、道の中に諸国があり、国の下に郡(従来の評)を、郡の下に里をおいた。それぞれの長を、国司(政府から派遣、数年おきに交替)、郡司(地方有力者、終身で世襲もあり)、里長(有力農民から選出)と定めた。


                  黒子

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