ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その6−2)
西暦723年4月,三世一身法が発布された。農民が徐々に多くなってきて班給すべき田地が不足してきた。よって、開墾を奨励しよう、というのが本法の動機である。それではなぜ田地が不足してきたのか、その理由から考えてみよう。
まず第一は、令制の規定通りの割合で当時の人口に配分すると、当時の田地では足りなかったのである。田積の見積もりが甘かったのか、人口の積算に狂いがあったのであろう。その根拠は和名抄[倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)が本来名。承平年間(931年〜)、源順(みなもとのしたごう)の編纂にかかる我が国最古の本格的な部門別百科事典]に見える。和名抄編纂当時の田積は八十六万町であり、奈良期初期の人口は推定五百五十万とすると、律令通りの班給が可能であるが、この田積は平安初期の数字であるから、奈良期を通じて開墾された田積が含まれている。よって、律令開始時は人口の割に田積が少なかったと思われる。
第二は、班給が郷(西暦715年に国郡里制から国郡郷里制に、740年から国郡郷制に移行)単位で行われていたらしく、農民の人数と田積のバランスがとれていないと、過不足が生じることになる。
第三は、位田、職田等の存在である。これらは農民への口分田班給額を圧迫したに違いない。
そして第四は、政府ができるだけ公田を温存しておきたかったことにある。口分田と比べ、公田からは使用料として収穫量の二割をとれるので、政府への収入は一.七割多いことが魅力であった。
他にも田地不足の理由があったかも知れないが、ともかく開墾のピッチを上げる必要があった。
 もし、農民が開墾し、そこを耕作するだけの能力を備えていれば、たとえ子子孫孫に田地を残せなくとも、財をなすことが出来、結構裕福な農民として暮らせたであろう。しかし、納税に追われてそんな余裕はなかった。それでも頑張って開墾しても収公が近づくと開墾した田地の耕作を放棄し、田地は荒廃した。
一方、貴族や社寺は私有の奴隷をつかって積極的に開墾をすすめた。そのこと自体は農民が没落していく理由にはならないが、国司やその下の郡司に手を回し、農民を開墾事業に駆り出したのである。勿論賃金は払ったが、強制労働となんら変わりがなく、農民本来の営みが破壊され、かえって口分田の荒廃を招いてしまった。
 三世一身法によって開墾された田地はいずれ収公されるので、公地公民制からなんら逸脱するものではなかったが、実態として公地公民制の崩壊を早める一因になってしまった。
                 黒子

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