ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

多摩丘陵の緑があぶない!

          多摩丘陵の緑があぶない!

 以前から新聞報道で知ってはいたが、具体的な生の声を身近な人から聞いた。
我々の住んでる所からはかなり離れてはいるが、同じ多摩丘陵(われわれのところは多摩丘陵の南端)の一角で開発騒動が沸き起こっている。その場所は、東京都稲城市の南山で、周辺は開発し尽くされて、唯一まとまった緑地が残っているところである。
国土交通省の首都圏の自然環境保全・再生・創出の考え方のなかにも「三浦半島ゾーン、多摩丘陵ゾーン」の緑を保全していこうということになっていて、国レベルでも重要な位置づけを持っている。鎌倉市はこの認識はもっているものの、実際には鎌倉時代の歴史的建造物や史跡をとりまく自然の保全に偏っていて、我々の住んでいるところも開発の危機にさらされている。ついでに言えば後北条の史跡保全についてはあまり関心がないのが実情である。
確か川崎市が多摩丘陵の緑保全を関係自治体に訴えていた。しかし、国立のマンション事件で示されたように、東京都はこの類の問題には冷淡である。せめて鎌倉市、横浜市が連携してこの声を自治体の方からも国に届けたいものである。
南山のことに話を移そう。開発面積は我々のところの十倍、90ヘクタール弱で、我々の所もそうであるが、縄文時代の遺跡が残り、貴重種を含む野生生物が豊富に残っている自然豊かな場所であって、これをなんの変哲もない、つるつるのっぺらぼーにして何処にでもあるような商業施設や住宅街を造ろうとしているのである。
日本人は新し好きで、住宅などはすでに余剰になっているのに、どんどん新しい所へ居住していくから、この手の開発が後を絶たないのであろう。
筆者が南山に親近感を抱いたのは、多摩丘陵、縄文遺跡、そして後北条の史跡である。よくは調べてないが、近くに城があったと見え、打越なる地名もあるところは当方と同じである。ちなみに打越とは城内と城外の境界を示す場所である。戦国時代、関東を支配した後北条の史跡はどんどん失われてしまおうとしている。われわれの所は下坪砦だ。ここには玉縄城の二の丸があったと信じている。
 都議会選が迫っている。南山の保全を唱える候補はいないのであろうか。いるならこぞって投票し都政に反映させなければなるまい。南山の保全活動を続けておられる方々に、はるか鎌倉の地からエールを送りたい。
黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その6−3)
三世一身法施行によってしても田地が思うようには増えなかった。農民は生活に必要なだけの口分田を与えられず、社会問題になっていたであろうし、政府は政府で税収が不足して財政を圧迫したであろう。また、時の天皇、聖武帝が大仏造立に熱心で、有力者たちの協力を得たいという動機も働いたふしもあって、西暦743年、墾田永年私財法が発令された。それぞれの位階(公民であれば誰でも)に応じて500町から10町までの限度が設けられてはいたが、墾田は、自由にかつ永久に私財としてよいという法令が出されたのである。ただし、土地の律令原則から逸脱したわけではなく、従来から私地の存在を全く否定してきたわけではないことから、律令の基本原則を維持しているという説もある。
ただ、この法律に依拠して開始される荘園の開発によって、複雑な社会構造が生まれ、相対的に律令制度が制御能力を失っていく一因をなしているとも思われる。
私見だが、墾田そのものは私財としてよいが、それ以外の土地利用まで私財としてよいかどうか、疑問だと思う。なぜなら、この法律の狙いは税収の増加にあったわけだから、墾田の認可を得て開拓された田地を勝手に他の用途に転用することは想定していないはずである。つまり、田地という形態は私財かもしれないが、土地そのものまでの私財化を認めたとは考えにくいからである。
ともかく墾田永年私財法が発令された。しばらくは貴族や寺社による初期荘園の出現をみることになるが、あくまでも、律令体制のもとでの荘園開発であり、律令体制が崩壊すると、初期荘園も消滅することになる。初期荘園が消滅しても荘園開発がなくなったわけではなく、時代時代の政治情勢にあわせた荘園開発はつづくのである。荘園開発と公領まで巻き込んだ土地所有のあくなき追求は人間の欲望をむきだしにして、止まるところを知らない混迷の時代を出現させることになる。
 西暦749年に諸寺の墾田地の限度を定めている。東大寺の4000町から国分寺の1000町、法隆寺の500町などとなっている。
 また、この法令は西暦765年に、時の権力者道鏡により、寺院以外の新墾田を禁じるという、寺院の優遇と王臣家の抑圧を狙った政策に改められるが、道鏡が追放されると西暦772年に復活し、再び王臣家は競って墾田の獲得にのり出していったのである。
黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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