ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

ジャンケンの後だし?大船観音前マンション事件

ジャンケンの後出し? 大船観音前マンション事件
 鎌倉市は昔から開発にまつわる騒動が起こっている。
極め付きは御谷(おやつ)騒動だ。昭和30年代から40年代にかけて鎌倉八幡宮の裏山が開発の危機にさらされ、文化人を中心とした開発反対の市民運動がおこった。この運動のおかげで開発を免れ、このことを教訓に国としても奈良、京都を含め「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」を公布した。
 そして現在、大船観音前マンション建設にまつわる、これもほとんど騒動といってもいいくらいの緑地保全や景観保全にまつわる反対運動が起こっている。この開発に関して、開発区域が公道に接していないのに鎌倉市が開発許可を出したとして、近隣の住民が県開発審査会に行政不服審査法に基づき不服申し立てを行い、県開発審査会は許可取り消しの採決を下した。ところが鎌倉市は事業者が開発許可申請を補正するだけに留めたが、これを合法として再び開発許可を出した。住民はこの処分を不服として再び県開発審査会に不服申し立てを行い、県開発審査会は二度目の許可取り消しの採決を下した。この成り行きを見ていて、ジャンケンの後出し的行為に通ずるやり方ではないかと素人的に考えたものである。ジャンケンは一発勝負で勝ち負けを決するが、相手の手(公道に接道してないがゆえに県開発審査会が許可を取り消した裁決)を見て、公道に接するよう補正をしてジャンケンに勝とうとしたのはルール違反であろうと。県開発審査会が一度ならず二度までも同一の案件で鎌倉市の処分を取り消すなど前代未聞だが、これで収まらなかった。
 今度は事業者が行政事件訴訟法に基づき、住民に原告適格がないことおよび二度目の県開発審査会の裁決は違法であるとして、県開発審査会の裁決の取り消しを求めて横浜地裁に提訴した。このこと自体はよくある話だと思う。住民側が訴訟参加を申し出たのも納得できるとして、なんと鎌倉市が原告側(事業者側)に補助参加をしたのである。理由は事業者が許可を出した鎌倉市に損害賠償を請求することが予見されるというので、市民の利益を守るためだとしている。こんな安易な対応で日々行政事務を執行していたら、税金はいくらあっても足りないであろう。ここでは省略するが事実無駄使いの数々が明るみに出てきた。本来なら住民監査請求ものだと思う。
 昨日(平成21年8月26日)横浜地裁の判決が言い渡された。原告敗訴、である。判決で住民の訴訟参加、鎌倉市の補助参加がそれぞれ認められ、県開発審査会に対する住民の原告適格を認めた。問題の開発許可申請の補正は、「実体的内容に関する補正は認められない」とし、「県開発審査会の裁決に誤りは認められない」として、原告の訴えを棄却した。
 この判決をもって住民の願いがかなえられれば良いがと切に思う。
                  黒子
http://14.dtiblog.com/t/tamanawasekiya/file/20090927095642.pdf

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その6−4)
蝦夷地への領土拡大戦略の続きを記そう。西暦737年、奥羽連結のための連絡路を作ろうとして大野東人(あずまんど)が6000の兵を引き連れて蝦夷地に入った。戦いでは勇名を馳せた(西暦740年、藤原広嗣の乱では持節大将軍をつとめた)東人であったが、挑発的な行動は避け、敢えて戦いをせず、帰順した蝦夷には地位に応じた処遇をして共存する姿勢を示した。一方では開発の手を緩めることなく着々と領地拡大の策を進めたのである。律令国家になった時は積極的な武力行使が求められたが、明らかな方針の転換である。この方針は代々引き継がれていくのである。
その後、西暦750年代、時の権力者藤原仲麻呂も蝦夷地の開発を積極的に推進した。息子の朝獦(あさかり)を陸奥守に任命し、西暦758年陸奥国桃生城、西暦759年雄勝城を築かせた。多賀城から出羽に至る道の確保を図るための策とされる。更に、仲麻呂は、投降して来た蝦夷には田地を与え、彼らを柵戸として定着させる方針をとった。投降してきた首長は郡司として任命したりもした。
しかし、開発が進めば蝦夷は追いつめられる。再び平安初期まで泥沼の軍事対決の時代に入るのである。宝亀一年(西暦770年)、以前から帰順していた蝦夷の首長宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)が反いた。他の蝦夷たちもこれに呼応し、桃生城に侵入し、反乱は出羽にまで拡大した。この時、陸奥国鎮守将軍であった大伴駿河麻呂は、大軍によって蝦夷を攻略しようとしたが、病に倒れた。
その後、蝦夷征討に当たったのが紀広純である。彼は蝦夷最大の拠点である胆沢(いざわ−現在の水沢市)を攻略しようとしていた。伊治城は道鏡政権下に築かれた城であるが、服属した蝦夷の首領である呰麻呂は郡大領(郡司の最高位)に任ぜられていた。呰麻呂は表面は服属していても、心中は政府の蝦夷征討を良しとはしていなかったであろう。またその上、牡鹿郡大領道嶋大楯から常々夷俘(いぶ)として侮辱されることを怨んでいた。
 西暦780年、紀広純が胆沢への前進基地として覚鱉城(かくべつじょう)を築くため伊治城へ入った折に事件は起こった。呰麻呂は大楯を、次いで広純を殺害したのである。
 直ちに藤原継縄を将軍とする征討軍が任命されたが、戦いの準備もできぬままに終わった。次に任命された藤原小黒麻呂の征討軍も、糧秣も確保できず、蝦夷のゲリラ軍に悩まされ、進撃は出来なかった。桓武即位後、政府は大伴家持を持節大将軍とする新たな征討計画を建てたが、長岡京造営などにより中止された。これらの反乱の鎮圧は坂上田村麻呂の登場を待たなくてはならない。
                黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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