ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−2)
 紀古佐美を征討大使とする征討軍が多賀城に集結し、延暦八年(789年)三月九日に進軍を開始した。四月六日の現地からの報告によると、多賀城を発した征討軍は、三月二十八日には衣川(現在の岩手県平泉町)を渡って三か所に軍営を設けたが、それから一カ月以上もそこに留まったままであった。蝦夷によって情報網を破壊され、どこをどのように攻めたら良いのか分からなかったようだ。いたずらに軍粮を浪費し、なすすべを知らない征討軍に長岡京の政府は苛立っていた。それから二カ月ほどした六月三日に届いた報告で、ともかく進軍したことを知らされた。その報告によるとえりすぐりの兵六千人を三隊に分け、北上川を渡河したのである。前軍は蝦夷軍に阻まれて渡れなかったが、他の二軍は渡河に成功した。遭遇した蝦夷軍と戦い、優勢と思い込んだ征討軍は進撃をしたところ別の強力な蝦夷軍に遭遇、退却しようとしたところ、更に別の蝦夷軍に退路を断たれ、混乱した征討軍は隊伍を乱して敗走した。征討軍は蝦夷軍を率いる阿弖流為(あてるい)の巧みなゲリラ戦法に翻弄され、なすすべなく敗退した。
六月九日、大きな打撃を受けた征討軍は、軍粮等の補給が困難であることを理由に政府の指示を待たず解軍すると報告してきた。よほど軍粮等が困窮し、切迫していたのであろう。
九月八日帰還した征討軍責任者の喚問が行われ、責任者の処罰が発表された。なぜか最高責任者たる征討大将軍紀古佐美は処罰を免れている。
               黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−1)
 ここからは平安時代に入る。奈良時代に決着を見なかった蝦夷対策の続きを一応の決着をみるところまで記して行きたい。その前に皇統の転換があったことを記す。
壬申の乱で皇統は天智系から天武系に変わり百年ほど続いたが、天武系最後の天皇(女帝)には子がなくその死去をとらえて、藤原氏が次期天皇として天智系の光仁天皇を擁立し、続いて桓武天皇が即位した。
桓武天皇は奈良時代から懸案の領土拡張につながる蝦夷地の平定と天武系が支配した平城京からの遷都を目指していた。蝦夷地平定と遷都は桓武天皇の権威を高めるためにも是非とも達成しなければならない事業であった。
 蝦夷地平定に関しては奈良時代末、いろいろと事情があったにせよ陸奥国伊治郡の大領にまでなっていた蝦夷出身の呰(あざ)麻呂が陸奥按察使兼鎮守府副将軍紀広純を殺害するという事件が発生したところまで述べてきた。
その後政府側は報復計画をたてたが思うようには進まず、足踏み状態が続いていた。しかし、長岡京遷都も達成し、いよいよ蝦夷地の平定を本格化させるため、延暦五年(西暦786年)八月、征夷に備えて東海道および東山道の戦闘能力(当時は武器・防具、持参の徴兵を行っていたらしい)を点検し、延暦七年(西暦788年)陸奥国に命じて軍粮三万五千斛を多賀城に、東海・東山・北陸道の諸国に命じて糒(ほしい)二万三千余斛を陸奥国に運ばせ、同年(西暦788年)三月には、勅によって、東海・東山・坂東諸国の兵力五万二千八百余人を、一年後の来年三月までに多賀城に集結せよとの動員令が出された。
                黒子

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