ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−4)
 延暦十三年(西暦794年)、大伴弟麿を征夷大将軍とする十万の征討軍を派遣し、かなりの戦果をおさめたが、蝦夷の拠点である胆沢の地を攻略することはできなかった。そこで桓武朝は第三次の征討軍派遣を計画することとなる。
まず、延暦十五年(西暦796年)1月25日、坂上田村麿を、陸奥出羽按察使兼陸奥守に任じ、更に同年10月27日、鎮守府将軍を兼ねさせた。軍事、行政の一体化を図るのが目的である。東国を中心に九千人の農民を伊治城周辺に強制移住させた。
延暦十六年(西暦797年)11月5日、坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、延暦二十年(西暦801年)2月14日、征夷大将軍坂上田村麿に節刀を賜った。征討軍は四万の兵力ながら強力な軍隊で着々と戦果を上げ、ついに胆沢の地の攻略に成功、同年9月27日、坂上田村麿は蝦夷征討を報告、10月28日、節刀を返還した。
延暦二十一年(西暦802年)1月9日、坂上田村麿を造陸奥国胆沢城使に任じ、胆沢城を造らせ、鎮守府を置き、東国の浪人四千人を配置した。さすがの蝦夷の猛将大墓公阿弖利為は同年4月15日、盤具公母礼等蝦夷五百人を率いて降伏した。
延暦二十二年(西暦803年)3月6日、胆沢の前衛となる志波城を築造するため坂上田村麿を派遣し、延暦二十三年(西暦804年)1月28日、第四次の征討を行うべく坂上田村麿を再び征夷大将軍に任命した。しかし、平安京の造営と蝦夷征討で人民は疲弊していた。桓武天皇もこれ以上の造作と軍事の継続を徳政にはならぬと決意し、延暦二十四年(西暦805年)十二月、これらを打ち切ることにした。従って、坂上田村麿による第四次の蝦夷征討は行われなかった。ただ、後日談があって、薬子の変で上皇方が東国に逃れるのを要撃する部隊の責任者を命じられていた大納言坂上田村麿が、平城上皇方に加わったとして監禁されていた文室綿麿を起用するよう嵯峨天皇に願い出てかなえられ、文室綿麿は喜び勇んで上皇方要撃部隊に加わったというエピソードがあったが、その文室綿麿が次なる蝦夷征討の征夷将軍に任じられるという巡りあわせになるのである。
                 黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−3)
 延暦八年(西暦789年)の桓武朝第一次の蝦夷征討は失敗に終わった。しかし、諦めたわけではなかった。すぐさま次の征討の準備に取り掛かった。延暦九年(西暦790年)閏3月、東海、東山両道に、革甲二千領と軍粮の糒(ほしい)十四万斛を準備させた。翌延暦十年(西暦791年)1月には、百済王俊哲・坂上田村麻呂等をその確認に遣わす念の入れようであった。同年7月、大伴弟麻呂を征夷大使に、百済王俊哲等を副使に任命した。第一次では東海・東山両道から約五万の兵力を動員したが、第二次の征討軍は、第一次の二倍に当たる十万の兵力を動員することを目標とし、しかも全国すべての人民を対象とし、甲も作らせた。
京への遷都が進む中、 延暦十三年(西暦794年)正月元旦に大将軍大伴弟麿に節刀を授け、大軍は蝦夷地を目指して出発した。六月に副将軍田村麿らの指揮によって、征討が開始されたが、十月には戦闘が終わったらしく、大伴弟麿から戦勝の報告が入った。しかし十万の大軍をもってしても、胆沢を攻略することはできなかった。このことは、蝦夷の抵抗がいかに頑強であったかを物語っている。
                黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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