ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−6)
 今までは統一王朝(征服民)側からの一方的な視点で土地所有の歴史を見てきた。しかし、被征服民から見た土地所有の歴史も見なければなるまい。被征服民の代表例として出雲国、吉備国と並び称される東国の大国、毛野国(けぬのくに)の足跡をたどってみることにしよう。毛野国は概ね現在の群馬県が発祥の地で、利根川水系が広がっており、弥生時代にははやくから稲作文化が栄えていた。しかし、この地を毛野国として成立させた部族は弥生時代の終わりごろ東海地方から集団で移住してきた部族であった。その根拠は土器である。東海地方でよくみられる土器がこの地でもよく見つかっているからである。この地の先住民はこの移住部族に押されて次第に淘汰された。移住部族は農業は勿論、利根川水系を使った船による交易を発達させて、富を蓄積した。四世紀には現在の群馬県下に当時としては巨大な古墳を築いていて、その規模と位置から二大勢力が存在したことを窺わせる。五世紀後半にはこの二大勢力は統合され毛野国に発展したが、このころになると現在の栃木県(下野)、埼玉県(北武蔵)、東京―神奈川にまたがる多摩川水系(南武蔵)をも支配するようになっていた。しかし、北武蔵と南武蔵は一体的な政権で同時に大和朝廷とも同盟関係にあった。従って、この南北武蔵は朝廷から国造(くにのみやつこ)を配されていたが、南北間でその帰趨をめぐって対立が生じ、南武蔵が毛野国に、北武蔵が大和朝廷にそれぞれ支援を求めた。南北武蔵の軍事衝突は北武蔵―大和朝廷側が勝利し、南武蔵に加担した毛野国は追いうちをかけられて敗退した。この出来事を契機に毛野国は朝廷の支配を受けるようになったが、領土は安堵され引き換えに蝦夷地征討の前線基地化の運命を受け入れざるを得なくなった。
                 黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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