ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−8)
前稿では初期荘園が消滅したことを書いた。それでは次に登場した荘園はどのようにして成立したのであろうか。それには農民の逃亡・浮浪や富豪層の出現が背景にあるのでその点から見て行こう。
多くの農民は律令制における重税と高利の私出挙等に頼って(頼らざるをえなかった)債務が膨らみ返済に窮した結果、逃亡・浮浪せざるを得なかった。
富豪層の出自は国司、郡司、農民だがこれらの者たちは概ね律令制の盲点をついて牛馬・稲穀・銭貨・田畠や奴婢を獲得し、浮浪・逃亡の農民を囲い込んだり、農民の調庸を代納しては後日代納分以上の物を納めさせたり、稲穀を周辺農民に私出挙を行ったりして富を蓄えていった。更には一般農民を債務で拘束し、従属させる関係を作りあげ自分の田畑の開発や耕作をさせた。
こうしたやりかたは律令制に反するので国司の追及があれば財産の没収もあり得、これを回避するため集積した田地や借金のかたに取った農民の宅地を形式上諸院諸宮王臣家(中央貴族)の荘園にしてしまうのであった。
富豪層と諸院諸宮王臣家とが一旦手を組むと未墾地を囲い込んで墾田をしたり、従来共同使用されてきた山川藪沢を囲い込んで周辺の口分田を荒廃させ、その荒廃田を再開発して荘園にしてしまうという悪質なやり方をした。しかも荒廃田の再開発は六年間の租が免除され、一代限りであったが保有が認められたので、売田などの利益を手に入れることができた。富豪層は人手には困らなかったし、こうして成立した荘園へ進んで流入してくる人たちがいたから、初期荘園で苦労した諸院諸宮王臣家としてもメリットが大きく両者の役割はお互いに弱点を補完しあう関係であったのでこのやりかたが急速に広まった。国司はこうしたやりかたを違法であると思っていても中央貴族の権威を恐れて手を出せないでいた。
黒子


開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−7)
 再び平安時代初期に戻って、蝦夷征討以外の出来ごとについて見て行くことにしよう。奈良時代、人口の増加に伴って田地が不足し、これを解決するために良田百万町歩計画、三世一身法、更には墾田永年私財法を成立させた。
奈良時代に於いては、墾田永年私財法を根拠に諸院諸宮王臣家が私有を認められ、国司等の協力を得て墾田したか、私有を認められた墾田を買得して、集積した田地を初期荘園と呼んでいて、律令制の行政区画である郷のなかの一部であった。経営は周辺の口分田を耕作している農民に売田(一年契約で耕作させ収量の二割を荘園側が取り、この中から租約3%を国衙に納める)することによって行われた。
人口の増加によって班給すべき田地が不足するという状況は、反面そのような地域に新たに墾田出来るような土地がないということであって、人口集積地(畿内など)からはなれた地方に初期荘園を開くしかないが、人口がそれほど密ではないために初期荘園を耕作する農民を確保し難く、休耕田や廃田が多く見られたという。それでもなんとか持ちこたえられた初期荘園も後に述べる「名」制度になると国司や郡司の支援が届かなくなり、廃園に追い込まれた。


                黒子

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