ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−14)
田地の私有化は荘園や私領、治田等となって具体化したが、墾田永年私財法に則り合法的に行われたのであればその権利は保証された。しかし一旦私的権利追及の突破口が開かれると思いもよらない対象にも向けられていくのである。例えば、十世紀の半ば頃になると地方の官職にも及んだ。この動きの裏付けとなる法律はなかったようだが、「郡司職」という用法が現れる。これは郡司という公領の管理権に代表される官職が私財化されたことを意味する。具体的には親から子へ郡司という官職が受け継がれるようになっていった。さすがに国司についてそのようなことはなかったようであるが、その頃になると政府は国司に対し一国の徴税を請け負わせる方式に変えており、義務を履行するための検田権を含む強化された国務権を国司に与えたため、国司によっては任国から絞りとれるだけ絞りとり私服を肥やしたのである。この行動は農民を苦しめただけでなく、田堵や郡司の既得権益と対立するところとなり、国司の暴政を政府に告発する事態に発展することもしばしばであった。
律令制が弛緩してくると政府からの支給が滞ることもしばしば生じた。身分が高い者ほど親族はもとより使用人の数も多かったので生活を維持するため資産を蓄えこれを代々引き継ぐことが必要になるはずである。ここに「家」が生ずるきっかけがあったと思うが、呼応するかのように結婚形態も十一世紀末には婿取り婚から嫁取り婚に変わっていった。このような変化は藤原氏が得意とした政所政治がやりにくくなることを意味する。
                 黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−13)
 天平十五年(西暦743年)に発布された墾田永年私財法に定められた官位別の開発可能規模について振り返ってみよう。親王一品(いっぽん)と諸王・諸臣一位には五百町、二品と二位には四百町、三品・四品と三位には三百町、四位には二百町、五位には百町、六位以下八位以上には五十町、初位以下庶民(農民)にいたるまで十町であった。ただし、郡司の大領・少領には三十町、主政・主帳には十町とした。また、天平勝宝元年(西暦749年)別に定められた命令で寺院の荘園の最大面積を東大寺で四千町から法隆寺で五百町とし、天平十四年(西暦742年)設立が決まった国分寺にも、同年僧寺で千町、尼寺で四百町の限度が定められたことは既に述べた。ここで注目したいのは庶民でも十町の墾田が許されていることで、一人当たりの口分田が二段なので実に五十人分の広さに相当するのである。延久二年(西暦1070年)の大和国にあった興福寺の荘園が151荘で2357町余りであったが、1荘当たり15.6町ということで庶民の10町は意外に大きい事が分かる。
荘園の立荘を許されたのは五位以上の貴族層や官大寺であって、官省符(券契)によって保証された。一方、荘園設立を許されなかった者のうち、例えば農民は自ら墾田を行い(これを治田と称した)少しずつ田地を増やしていったであろうし、地方豪族や豊富の百姓等は国に認められた治田(じでん)等を買得したり、自ら墾田や開発をして田地を集積した。このような田地を私領といい、荘園立荘資格を持つ五位以上の貴族層や大寺社に寄進して荘園にし、自らは荘官におさまる例や私領のままで公領の扱いに止まり(国司としてはこの微妙なバランスをとることで収入が期待できた)官物を国におさめて私領主としてその土地の支配権を維持する立場を選択することもあった。なお、合法的に墾田した場合は公験(くげん)が国から交付された。
                  黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−12)
 「名制度」とは、公領の任意の面積の田地を設定し、これを田堵(たと)という者にあずけ、国が賦課する全ての徴税を請け負わせたものである。「名」の面積(数十町におよぶ場合もあった)は大小さまざまだが、田堵の実力に応じて担当「名」が決められた。契約期間を設け時々「名」の編制替えが行われた。徴税が規定通り行われる限り「名」をどのように分割しようとも、またどのように人を使おうとも田堵に一任された。田堵の出自は農耕の経営に優れた富裕層(豊富の百姓)であろう。もとはといえば、律令制を弱体化させた者たちであったが、朝廷側に協力させることによって、中央貴族と組んで荘園を乱立させるのを防いでいた面があった。
従来諸賦課は租・調・庸とよばれたが、「名制度」になってから、「官物(かんもつ)」と「臨時雑役(りんじぞうやく)」というふうに呼ばれるようになった。官物は国に納める献納物(主として米)であり臨時雑役は夫役と各種産品をさした。
律令制が目指した「公地公民制」のうち公民の面は後退したが、公領の経営に関しては維持されたことになる。なお、上記の記述でもわかる通り、ここでいう「名」は私有地ではないことを確認しておきたい。
                黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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