ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−20)
荘園を立荘出来たのは五位以上の貴族、大寺社に限られていた。荘園以外の私領は私有の土地であっても官物・雑役は国衙に納めねばならなかった。但し、私領主は農民から加地子をとることを認められていたから、私領に大きく依存していた農民は一般の公領の農民(田地は名に編成)より負担が大きかった。従って、普通に考えれば私領を耕作する農民を集めることは難しかったのではないだろうか。そこでこの状況を打開すべくいろいろと方策を考えた。一つは貴族らに寄進して不輸不入の荘園として立荘してもらうか、二つ目は寄進をちらつかせ税の面で軽減されるよう国衙に交渉したのではないか。官物免除は太政官符が必要だが、雑役免除は国司の国務権限であったから、雑役免の私領にすることはありえたと思う。
律令制開始時の郡や郷は人口を基に定められたが、農民の浮浪・逃亡に加えて、荘園や私領の出現で人口の実態が大きく変化した。もはや郷をいくつか束ねて郡とする規則性が崩れてしまい、郡、郷、保、条、別名、別符、院などという公領の単位としてそれぞれが並存する状態になっていった。
別名と言われる土地は在地有力者が耕地だけでなく、未墾地・山野・民戸を囲い込むことを許されたり、雑役を免除されたりしていた。農民は多分加地子を取られるのだが、雑役は軽減されて(私領主のために徭役を提供したであろうから)「名」の農民とバランスするようなシステムであったろう。
 律令制時代当初は賦課の基準となった班田図(略して田図(でんず)ともいう)が土地台帳であったが、平安末期以降は公領、荘園が入り混じった状況に対処するため大田(おおた)文(ぶみ)が作成された。
大田文のなかでは公領も荘園も田地は公田、畠地は公畠とよんで収取の対象にした。
                 黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−19)
荘園の中はいろいろな名目の田地があったが、公領の名に相当する百姓名という区分があった。公領では名の広さは大小様々であったが、荘園の場合の百姓名はほぼ均等に区分されていたようである。公領の田堵に相当する「名主」が百姓名を請け負っていた。名主は当然地主ではないが、荘園領主の影響力が希薄になりがちな遠隔の地域では名主の私的な支配力が強くなる傾向があった。
ところで院、女院、皇后、中宮などの経済的な基盤になっていた院宮分国制と言う制度があったが、天皇家や摂関家に、更には上流貴族にも拡大され「知行国制」として普及した。いわば公領が荘園のごとき性格をもつ状況である。知行国主は息のかかった者を国司に任命する権利があり、知行国から上がってくる官物相当分を私物化出来たのである。
治承のクーデターまで起こして栄華を誇った平家はとりわけ知行国の取り込みに力をいれ最盛期では三十二カ国に達していた。
 畠の事に触れておこう。畠は従来、園宅地の区分であり、農民が食糧を賄うための土地として私有が認められていた。しかし、十二世紀、荘園が本格化し、畠の開発も行われるに至ると、田地と同じく名に編入され、公領でも荘園でも収取の対象になった。同じく園宅地内に居住するいわゆる在家に対しても在家役(宅地内での生産物に対する賦課)が課せられた。十一世紀までは園宅地に対する税はかからなかったから、よりシビアーになったといえる。
                  黒子

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