ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−3)
クーデターを起こして実権を握った義仲であったが、得意の絶頂期はわずか三カ月、入京してきた義経、範頼軍と戦うも奮戦むなしく多勢に無勢で守勢一方に陥り、北陸に落ちようとしたが近江粟津の浜で敗死した。寿永三年(西暦1184年)一月であった。同月頼朝に平家追討の宣旨が下ると、同年二月一の谷の合戦で平家に勝利し、屋島、壇ノ浦の合戦で平家は滅んだ。この間頼朝は寿永三年四月、都から大江広元を招聘した。大江家は学問・法律を家業とし、広元自身は太政官の書記官役を務めていた。頼朝の側近に文官を得たことで、幕府機構の整備が順調に仕上がった。
平家が滅ぶと朝廷はその所領を没収した。いわゆる平家没官領で五百か所余りに及ぶものであった。当然平家討伐の軍事行動を主動した頼朝にはその多くが与えられた。形の上で朝廷に協力したからこその収穫に違いない。頼朝が他の武士と違って以仁王の令旨以降反平家に立ちあがった多くの武士が年貢納入停止等の挙に出たのに対し、あくまでも表面的には朝廷の協力者であるとの姿勢を貫いてきた意図がこの結果を見れば明らかである。
                黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−2)
前稿で頼朝が寿永二年(西暦1183年)十月宣旨を得たことを記したが、その内容を補足しておく。今まで平家によって押さえつけられてきた武士たちが、頼朝の旗揚げをきっかけに、その不満を一気に爆発させて、国衙を襲ったり、納めるべき年貢を停止するなど、内乱状態に陥った。或る意味では頼朝の意図した状況であるが、頼朝は慎重であった。東国に地盤を築いた頼朝は治承五年(西暦1181年)七月に法皇に連絡を取り始めたことは既に書いたが、あくまでも朝廷に仕える姿勢を示していた。つまり朝廷がこれまで築いてきた秩序を守り、朝廷に協力するべきだと考えていたようである。但し、その条件として、頼朝に東海、東山両道(北陸道も含む事を法皇に要求したが、義仲の報復を恐れた法皇が北陸道は外した)の支配権を法皇に認めさせることであった。そして事実そのようになったのである。具体的には荘園であれば、本所と在地の荘官との間に入って、荘官に直接指揮権を発動できたし、国衙であれば、国司と郡郷保司の間に入って直接郡郷保司を指揮することが出来るようになったのである。本所も国司も今までと違って思うようには荘園、公領を支配できなくなった事を意味するのである。わかりにくいが、従来本所や国司と対立してきた在地領主(=武士)の立場を改善することにつながるわけである。場合によっては東国に限られていたが本所や国司が持っている権利を武士に与えるということも行われた。具体的には請所の設置である。後の地頭請につながっていくものを先取りしていた。こうした頼朝の施策は武士の願いを正しく受け止めそれをかなえることによって主従関係が出来上がったと見られる。今風にいえば武士の自己実現の場を提供してやったと言えるであろう。
黒子
 

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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