ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−5)
 前稿で頼朝が諸国に守護地頭を設置したところまで書いた。守護地頭の設置は大江広元の提言によるものだが、これを即座に受け入れ、朝廷との交渉人として北条時政を派遣し、交渉の末に、守護地頭の設置が認められた。
守護は平安末期、令外の官(律令にない官職)として惣(そう)追捕使(ついぶし)がおかれていたが、やがて守護になった。守護はもともと国司が担った武力・警察権を分割して担うことにし、朝廷が任命していたが、爾今守護の任命は頼朝と御家人との主従関係に於いて宛行う行為のなかに位置づけられることとなった。そして重要なこととして、国司に対し重要な文書の提出を求める権限まで付与されていた。必要であれば大田文の提出を求め、政治経済の中核に口出しが出来た。
地頭は内乱で秩序が乱れ、荘園公領からの課役の徴収が滞ったのを円滑ならしめるため、荘園公領ごとに配置された。当初は平家の遺領や謀叛人(義経)に関係する所領に設置するという名目であったが、次第に諸国の荘園公領に拡大していった。そして、革新的だったことは、諸国の荘園の「下地(土地そのもの)」を「領掌」する権利を得たことである。
土地の面積を確定したり、百姓の補充が自由に出来、不輸不入が普通であって朝廷でさえままにならない荘園が鎌倉幕府によって掌握されてしまった事を意味する。このことによって貴族社会が地位の低下を余儀なくされ、代わって武家社会へと変貌して行くきっかけとなったと言っても過言ではない。
              黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−4)
  頼朝は、得た平家没官領と既に所有していた荘園を加えて後に「関東御領」と呼ばれた大荘園所有者になったのだが、それだけではなかった。三河、駿河、武蔵を皮切りに相模、伊豆、上総、信濃、越後、豊後の九カ国を次々に知行国とし、これまた「関東御分国」と言わしめた。変えるべきは変え(平家治世を)守るべきは守る(荘園公領制)というメリハリをもった改革に成功した頼朝の成果であり両方の土地を所有することによって後々の彼の経済基盤をしっかりと築きあげる事が出来たのである。しかし、ここまでだと全国制覇とまではいかない。頼朝の非凡なところはまだまだ続きがあるのである。そう、「守護」、「地頭」の設置である。守護そのものは新しい発想ではなく、平安末期に令外の官であった惣追捕使が守護となったとも言われている。
平家打倒に功績があった頼朝の弟義経が頼朝の許可なく後白河法皇から従五位下・検非違使・左(さ)衛門(えもんの)少尉(しょうじょう)に任じられていたことで頼朝の逆鱗にふれてしまったことから、義経が有名な腰越状をもって二心なきことを頼朝に訴えたが許されず、かえって京にもどった義経に刺客を送られ、おもいあまった義経は文治元年(西暦1185年)十一月法皇に嘆願して頼朝追討の院宣を下してもらった。激怒した頼朝が大軍を率いて京に攻めのぼるとの噂に法皇は手のひらを返すように義経追討の院宣を下した。しかし、同月兵を率いて上京した頼朝の名代北条時政から守護・地頭の設置を強硬に要求され、義経に頼朝追討の院宣を下した弱みを持つ法皇は同月この要求を受け入れた。頼朝自身は日本国惣追捕使(後の守護)及び日本国総地頭に任じられている。次稿で守護・地頭の役割を述べる事にする。
               黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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