ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−16)
ところで清衡の土地政策はどんなものであったのか。清衡が熱心にやったことと言えば、仏教の興隆であった。前九年の役、延久の合戦、後三年の役と戦に明け暮れ、人心がすさんでいたであろう。仏教の力によって心を癒し、官軍夷虜の多数の死者の霊を弔い、合わせて自分への求心力を培っていきたいと考えていたのであろう。しかし、そこには打算が隠されていた。たとえば千僧供(せんそうく)の挙行である。延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺など京都・奈良を代表するような寺で行われた。場合によっては中国の天台山でも行ったらしい。千人の僧による読経は無量の功徳があるという。当時千僧供を開催出来た者は天皇、上皇、摂関家に限られ、しかも特別な場合だけであった。右大臣を務めた藤原宗忠の日記「中右記」に延暦寺の千僧供を挙行するため清衡は700町歩の田地を囲い込んで「保」を建てたと記されているという。一部は私領であったろうが、大部分は公領だったのではないだろうか。事実時の陸奥守といざこざが起こったので、清衡は延暦寺と組んで陸奥守と対峙し、朝廷まで巻き込んでこの事件の解決を図ったという。千僧供は「保」を建てる手段であったのであろう。
清衡といえば中尊寺の建立である。この寺は天皇家の御願寺として建立された。本来天皇家が自ら行う性格のものだが、なぜか清衡に許された。動機は朝廷に感謝の気持ちを表すことであったが、本音の部分では公領囲い込みの免罪符にしたのではないか。中尊寺の伽藍群の寺領は村々の編入によって行われ特別開発などをしないで済んでいるという。
その他村々に伽藍を建立し、その寺のため仏性灯油田を寄進している。
清衡には荘園の立荘は出来なかったようである。私領を基に公領を囲い込んで「保」を建てるところまでが限界であったのであろう。
黒子

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開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−15)
義家が去り、新任の陸奥守が着任したが、清衡にとってはまたとないチャンスの到来である。本来なら窮地に陥ったところを義家に助けられたわけだから、義家の上に出ることは望めなかったところを、義家の失脚によって、陸奥守とはうまくやらなければならないという課題はあるが、それ以外は陸奥・出羽の地元ナンバー1になったのである。またとない好機に恵まれた清衡は、政府中央への人脈づくりを図ろうとしたのか、とりあえず関白藤原師実に馬二頭を送っている。再び系図を見ていただくことにしよう。清衡は武家の名門藤原秀郷の流れをひく藤原経清を父にもち、その父が安倍氏の女婿になったことで、安倍氏の血もひいていた。前九年の役では父経清が安倍氏側で戦ったために本来ならそこで生涯をおえるはずであったが、母が清原氏に再嫁したために、清衡も清原氏に引き取られることになった。そして後三年の役が終わってみると安倍氏と清原氏のなかで唯一生き残るという数奇な運命をたどった。そして安倍でも清原でもない、いわば全国区であり父の姓である「藤原」を名乗った。
清衡にしてみれば上述の、氏の長者である師実に自分が父経清(五位以上で藤原氏の氏寺興福寺の造興福寺記に名前がみえる)の男であることを意識した挨拶代わりにしたことかもしれない。ただし、師実は摂関政治の再興のチャンスをみすみす逸している人物なのを知っていてあまり頼りにした形跡はないかのようだ。
朝廷の信頼を得るために特産の砂金や鷲羽根(矢の材料)等の貢物は毎年欠かさなかったし、北方でとれるオットセイのなめし革などの交易品の献納などは自分にしか出来ない一種の役割(職)と心得ていたようである。
次稿では清衡がどのような土地政策を行ったかを見ることにする。
黒子

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