ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−18)
再び系図を参照頂きたい。奥州藤原氏の初代は清衡で陸奥押領使(軍事、警察権を司る官職)二代目の基衡は奥六郡押領使、出羽押領使、そしてこれから述べる三代目秀衡は嘉応二年(西暦1170年)鎮守府将軍に任ぜられた。このころ中央では平家全盛時代であったから、平家の意向が反映されたと思われる。これだけでも破格の事だが、養和元年(西暦1181年)には陸奥守に抜擢されている。頼朝挙兵が治承四年(西暦1180年)であり、平家としては頼朝を牽制する目的があったと思われる。
ところで奥州藤原氏と源義経の関係について触れておかねばならない。諸説があるが、秀衡の妻は先の陸奥守藤原基成の娘である。藤原基成は弟藤原信頼と頼朝・義経の父、源義朝とが起こした平治の乱の連座で罪人として陸奥国に配流されていたが、秀衡の政治顧問を担っていたと思われ、その基成の願いを受け入れて少年義経を匿って育てた、というところではないか。更に義経の母常盤御前は基成の親戚筋にあたる一条長成に再嫁しているので、常盤の願いを受けて長成が基成に頼み込んだとも考えられる。
秀衡は義経を大事に育てた。頼朝が平家打倒に立ちあがったとき、どうしてもはせさんじたい義経に、佐藤継信、忠信兄弟を帯同させていることが何よりの証拠だ。継信・忠信兄弟と言えば、公領の検注をめぐって国司といざこざが起こった際、基衡に罪が及ばぬよう首を差し出した者がいたが、この者の子孫である。このとき件の土地を中央に手をまわして荘園にして報いたが、その荘園とは陸奥国南部の信夫荘の事である。すなわち佐藤庄司一族の者たちなのである。奥州藤原氏と佐藤庄司一族とは代々緊密な関係を保ってきており、同じ秀郷流というから浅からぬ因縁があったのである。
さて、その義経が再び奥州藤原氏に匿われることになったが、その結末は次稿に譲る。
黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−17)
清衡は三十三年にわたって奥州、特に奥六郡、山北三郡、北奥の地に君臨したが、彼の死後後継者を巡って清衡の長男と次男との間で争いが起きている。この争いは、次男が長男を滅ぼすことで決着した。次男の名は基衡(例の系図参照)である。
基衡の代では清衡よりもやや積極的に土地支配を強めた所があり、国司との間で争いが起こっている。国司は天皇のお墨付き(宣旨)をもってある公領の検注を実施しようとした。この時基衡の部下が基衡の命によってこの検注を武力で妨害した際、国司側の多数の役人が怪我を負わされた。国司側は天皇のお墨付きを振りかざしており、このままでは基衡が違勅の大罪になりかねず、結局妨害した者が基衡をかばって自らを犠牲にして基衡に成敗されるという結末になった。こうしてみると基衡の公領の支配は奥六郡等以外決して強いものではなかったことが分かる。基衡はしかし内部へのしめしがつかないので、京の権門に必死に働き掛けてこの公領を荘園にしてしまい、犠牲になった部下の無念を晴らし、国司に一矢を報いたのである。
基衡と言えば荘園の年貢をめぐって、悪左府藤原頼長との交渉談が有名だ。しかし、その荘園とのかかわりをどうやって手に入れたのだろう。清衡は新たな荘園の立荘をしていないとした。ところが、かつて清衡が時の藤原氏の氏の長者である関白師実に馬二頭を送っているが、この時に清衡が陸奥、出羽、越後北部の摂関家の荘園管理を願い出て認められたのではないかとの説がある。もとをただせば源頼義・義家親子が主家である藤原氏に寄進した荘園だった。この当時の荘園は国免荘が多かったが、国司が代わるたびに荘園の認定を得なければならなかった。清衡はこの理屈を利用して下向してきた国司と交渉して頼義・義家の名義を変更させ、その過程で一部公領にもどった荘園もあったろうが、かなりの荘園を支配できたと思われる。
                     黒子

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