ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−21)
 奥州合戦に至る経過を吾妻鏡で見てきた。今回もその続きを記す。
文治五年(西暦1189年) 三月二十二日条 使節を上洛させ、「泰衡の自分勝手な請文はいささかも許容出来るものではないので、追討宣旨を下されるよう帥中納言(大宰府長官にして中納言)藤原経房卿に献じた。
              四月 十九日条 梶原平三景時の在京中の郎従が飛脚として鎌倉に参着し去る八日に承った帥中納言藤原経房卿による朝廷の動きを記した書状を持参した。それによると「(前段略。)比叡山上の僧兵の武具装着については禁止せよと既に天台座主に命じられています。奥州追討の宣旨については摂政(藤原兼実)をはじめとする諸卿に相談されて、追って勅答があるとの院の仰せを蒙りました。」という。
              四月二十二日条 奥州追討の事について、法皇不在ながら去る九日内裏で審議した。帥中納言藤原経房卿が法皇のお言葉を頼朝に伝えてきた。「奥州追討は朝廷の大事であるので慎重に考えている。官吏を奥州に派遣しているので宣旨を下されなかった。軍勢の奥州出発が決まったようだが、いつ頃の予定か。宣旨を用意して、泰衡からの返事を待つべきでしょう。
             閏四月二十一日条 泰衡が義経を匿っていることに朝廷は寛容だ。前々から申請している通り早く追討の宣旨を下されたら、鶴岡八幡宮の塔供養の後に奥州追討という年来の思いを遂げるつもりだとの書を藤原経房卿に遣わされた。
             閏四月 三十日条 今日、泰衡が義経を襲撃した。これは一つには勅定に従い、一つには頼朝の仰せに従ったものである。
義経は民部少輔藤原基成朝臣の衣河館におり、泰衡の従兵数百騎が攻め込み合戦となったが、義経の家人はすべて敗れ、義経は二十二歳の妻と四歳の娘を殺し、自殺した。 
              五月二十二日条 奥州からの飛脚が参着し、先月三十日義経を誅したことおよびその首は追って進上します。と述べた。
              六月  六日条 北条時政が奥州征伐を祈願するため、伊豆国北条内に伽藍の造営を企画し、上棟、供養が行われた。
              六月  八日条 京へ送った飛脚が帰参し、言うには、法皇は義経が誅罰されたからには弓矢をおさめよと内々に頼朝に申せとの帥中納言のお言葉であった。
              六月 十三日条 義経の首が腰越浦に到着した。
              六月二十四日条 泰衡が義経を匿ったことは、反逆以上のもの。これを征伐するために出陣することになった。その晩右武衛一条能保の伝言が鎌倉に到着し、奥州追討のことについて朝廷での審議の内容を内々に伝えられた。それは「何度も議論がなされ『このことは関東の憤りは無視できないが、義経はすでに誅されたのである。今年は伊勢大神宮の造営で上棟があり、東大寺の造営もあって、かれこれたいへんであるから、追討の儀は猶予せよ』との殿下(藤原兼実)の御教書が頼朝に献じられようとしています。」ということであった。
              
頼朝にとっては義経の存在は守護地頭の設置や泰衡追討の名目であったが、義経の自殺によってこれらが根底から覆ってしまいかねない事態である。どうやってこのことを克服するのか、次回も吾妻鏡の記述を追ってゆく。
                    黒子

開発予定地の法規上のポイント

この度の東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。被災地にルーツを持ち、かつて短い期間でしたが過ごしたことがある場所の惨状を見るにつけ、言葉で言い表せない空しさを感じております。被災者の皆様におかれましては、一日も早く平常の生活を取り戻されるよう念じております。

3.(1)土地所有の歴史(その8−19)
 基衡の代のとき、荘園の年貢の交渉相手であった藤原頼長は保元の乱で敗死した。頼長は奥州の高鞍(たかくら)荘、本良(もとよし)荘、大曾祢(おおそね)荘、遊佐(ゆさ)荘、屋代(やしろ)荘を含む全国に18の荘園を有していたが、すべて天皇領として没収された。
 さて、頼朝に追われた義経は逃避行の末文治三年(西暦1187年)春再び秀衡に匿われることになった。鎌倉方はこの事実を吾妻鏡の文治三年(西暦1187年)二月十日条に記しており、頼朝は朝廷に対し秀衡が義経を引き渡すよう働き掛けていた。秀衡はこの時点で義経を擁立して鎌倉幕府に対抗する決断をしていたと思われる。このとき既に秀衡の死期が迫っていた。秀衡亡き後の後継者を泰衡(系図参照・・・母は基成の女のため基成の顔をたてた)と定め、長男国衡(母は奥州藤原氏の近縁の女で一族に支持者が多い)には敢えて秀衡の妻(基成の女つまり泰衡の母という説が有力)を娶らせ長男としての面目を施した。そして義経を大将軍とし、泰衡らに義経に従うよう遺言した。この遺言に従わせるため三人に起請文を書かせた。秀衡は文治三年(西暦1187年)十月二十九日死去した。
 鎌倉方は義経(頼朝により名前が変えられるが義経とする)や藤原氏の動静を「吾妻鏡」に記しているので、順を追って経過(文意を概記)を記してゆく。
文治三年(西暦1187年)二月 十日条 義経妻子を帯同して奥州に向かった。
            同三月 五日条 義経が奥州にいることは秀衡の企てであることは諸人も認めるところであり、厳しく調べるべきとの頼朝の主張を受け、審議があったことを京都守護の一条能保(いちじょうよしやす)が伝えてきた。
            同九月 四日条 秀衡が義経を扶助して反逆しているとの頼朝の訴えに基づき陸奥国に先日院庁下文(日付、内容の記述はない)が発せられた。関東からも雑色を派遣しており、今日帰参した。雑色の申すところでは既に反逆の用意があるようだというので、これを伝えるべく雑色を京に派遣した。
            同十月二十九日条 秀衡死去
義経を大将軍とし、陸奥国の国務に当たることを息子の泰衡等に遺言したという。

                黒子
 

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