ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−22)
 奥州合戦に至る経過を吾妻鏡でたどっているが、その続きを記す。
文治五年 六月二十五日条 奥州の事については、やはり追討の宣旨を下されるよう重ねて頼朝から京都に申し上げられたという。
     六月二十六日条 義経に味方したかどにより、泰衡が弟の忠衡を誅した。
     六月二十七日条 泰衡追討の宣旨を朝廷に申請しているので、軍勢を動員しており、鎌倉に集まった者はすでに千人におよんでいる。進軍の経路に当たる国の住人は進軍の時に合流せよとのおふれを出した。
     六月二十八日条 鶴岡八幡宮の放生会は八月に行っているが、奥州に出陣しているはずだから、来月一日に泰衡征伐の御祈祷のためもあって行うことになった。
     六月 三十日条 頼朝は大庭平太景能を呼んで、奥州征伐について後白河院の御意向を伺ったが、いまだに勅許がないが、どうすべきか申してみよと尋ねた。景能は「軍陣中では、将軍の命令は聞くが、天皇のいうことは聞かないと申します。すでに、天皇には申し上げているので、強いてその返答を待つ必要はありません。そもそも泰衡は先祖代々から御家人の家を継ぐ者ですから、綸旨が無くとも処罰することになんの問題があるというのでしょうか。」と答えた。
     七月  八日条 千葉常胤が新調の御旗を頼朝に献じた。その旗の寸法は、かつて頼義将軍が前九年の合戦で使用した旗と同じ寸法である。
     七月 十六日条 朝廷より、泰衡追討は天下の大事であるから今年中は思いとどまるようにとの意向が伝えられたが、頼朝は軍勢も参集して出費もかさんでいるので、このうえ来年に先送りすることは出来ないとして、出陣する意向を表明した。
     七月 十九日条 頼朝は奥州の泰衡を征伐するため出陣した。

頼朝は大庭景能の意見を決め手にしたのであろう。軍陣中云々は「史記」に「軍中聞将軍令、不聞天子之詔」とありこのことを引用したもの。また、泰衡が御家人の家を継ぐ云々はかつて前九年の役では藤原経清は安倍方に寝返ったのだが、当初は頼義に従っていたこと、そしてその子である清衡が家衡に妻子眷族を皆殺しにされ、義家に助けを求め、それにこたえて家衡を後三年の役で滅ぼしているが、成り行き上清衡は義家に従った形であり源家とは経清、清衡と主従の関係にあったことを指しているのであろう。

頼朝の奥州征伐に先駆けタイムスリップして、前九年の合戦からふりかえってきた。
次稿からもとにもどってその先を記すことにしよう。
                黒子


開発予定地の法規上のポイント

前回誤って8−21)を先に出稿してしまいました。前後してしまいましたが(8−20)を投稿させていただきます。混乱をお招きし深くお詫び申し上げます。
3.(1)土地所有の歴史(その8−20)
引き続き奥州合戦前の吾妻鏡の記述を追ってみる。
文治四年(西暦1188年) 四月  九日条 泰衡に対し義経を捕えて差し出すよう命じる宣旨(二月二十一日付)と陸奥、出羽の国司に対し宣旨の趣旨を承知させるべく院庁下文(二月二十六日付)によるお達しを出したが、その使者が本日鎌倉に到着し、頼朝はその内容を内々に見た。
              六月 十一日条 泰衡の京への貢馬、貢金、絹糸等が大磯に到着した。頼朝は差し押さえの判断を求められたが、義経を匿っているとしても、重要公物の抑留は難しいとした。
八月  九日条 頼朝は一条能保(京都守護)に泰衡、基成が義経を匿っていることについての朝廷の対応が遅れているので、すぐに朝廷に申し入れるよう指示した。
十月二十五日条 泰衡に義経を差し出すよう命ずる宣旨案(十月十二日付)が鎌倉に到着した。
十二月 十一日条 官史生(かんしのしょう:下級書記官)紀守康が義経拘留引き渡しについての院庁下文(十一月?付け)が添えられた宣旨を携えて奥州に向かう途次、鎌倉に立ち寄った。
文治五年(西暦1189年) 一月二十二日条 頼朝の使いが京都に遣わされた。
要件 一、朝廷の許可を得て泰衡を誅罰したい。
一、 藤原頼経卿は義経に味方した延臣。解官、追放を言上したが処分が甘いので不満。
一、 義経に味方した者の官職を解かるべし。
一、 延暦寺の僧が義経に味方して武装している。朝廷から武装禁止するよう申し入れたところ、後白河院から勅答がありましたが、いまだ武装をしている。
以下省略。
        二月二十五日条 泰衡の動きを探らせるため、雑色を奥州に
遣わす。
             二月二十六日条 官史守康(前出)が奥州に派遣された帰途、鎌倉に逗留。守康いわく「『予州(源義経)の所在が露見しましたので、速やかに捕えて進上するつもりです』と泰衡が請文に記し、言上した」。頼朝は「泰衡の本心はなお、測り難い。信用できない」という。
             三月 二十日条 一条能保の使者、鎌倉に参着。去る三月九日上記請文が京に到着。請文をご覧になった後白河法皇は「速やかに義経を逮捕し、進上せよと、重ねて基成、泰衡に下命せよ」と藤原兼実(氏の長者兼摂政)に伝えた。
                  黒子

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