ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−24)
 文治五年八月七日、大手軍は藤原国衡が防塁を築く陸奥国伊達郡阿津賀(あつか)志山(しやま)付近に到着した。阿津賀志山までの途中には逢(あぶ)隈(くま)河(がわ)から水をひいて堀を築いていたが、畠山重忠が連れてきた人夫八十人が用意してきた鋤、鍬で土砂を集め、いとも簡単に埋め戻してしまったので行軍にはなんの支障もなかった。奥州軍は金剛別当秀綱率いる数千騎が阿津賀志山の前に布陣していた。大手軍は秀綱勢を攻め、秀綱も防戦したが防ぎきれず敗走した。義経にゆかりのある佐藤庄司基治(継信・忠信の父)は郎党を率いて石那坂(福島市平石付近)の上に陣取っていた。ここでも激戦が展開されたが、常陸冠者伊佐為宗兄弟等の奮戦で佐藤庄司勢は討ち取られた。奥州軍はじりじりと後退をよぎなくされ、八月十日には頼朝は阿津賀志山を越えた。奥州軍の城柵の木戸口(城柵の入り口)に殺到した大手軍は一斉に矢を射かけたが、この柵に籠る西木戸国衡の陣頭指揮のもと防備が固く容易には落ちる様子はない。しかし策が着々と進行していた。小山七郎朝光等七人が案内人をたて、柵の背後の山によじのぼるルートを目指していた。到着すると時の声をあげるとともに矢を放った。陣中は搦め手から敵が来たと思い大混乱に陥った。前と背後からの両面攻撃をうけた奥州軍は算を乱して敗走した。しかも、霧が深くかかっていたため離脱する者が多かった。後方にあった泰衡の陣で阿津賀志山の陣が大敗を記したことの報告を受けた泰衡は戦局の立て直しを図るべく退却を余儀なくされた。泰衡と国衡の連携はいまひとつ定かでないが、国衡も思いは泰衡と同じではなかったか。しかし、後退のさなか、国衡はいつしかたった一騎になっていた。そこに和田義盛と遭遇し、一騎討ちになった。騎射は義盛が一瞬早く、国衡の腕に当たった。そこえ畠山重忠の軍勢が両者の間に割って入り、動揺した国衡は誤って深田に落ち、重忠の手の者にたやすく討ち取られてしまった。各所で奥州軍の抵抗が続いていたが、大手軍は八月十二日多賀城に到達した。東海道方面軍の大将軍千葉介常胤、八田右衛門尉知家らも合流した。一方、出羽方面軍の比企藤四郎能員、宇佐美平次実政らは八月十三日に出羽国に討ちいっている。連絡を取りながら進軍をしているのだと思うが、見事な連携だと思う。八月十四日、泰衡の消息がわかってきた。それによると玉造郡(宮城県北西部)もしくは多賀城周辺の物見岡に陣取っているとの二説であったが、玉造郡のほうがやや確からしいとの判断で主力は玉造郡に向かった。しかし、物見岡も偵察すべく、小山兵衛尉朝政・下河辺庄司行平らを派遣した。物見岡を囲んだところ泰衡はすでに逃亡した後で四五十人の郎従が残っていた。すぐに戦闘になったが、大した抵抗もなく討ち取ってしまった。朝政・行平らは本隊に合流すべく先を急いだ。頼朝は玉造郡に到着してみると泰衡の多加波々城に泰衡はすでになく、残留していた郎従も投降した。こうなると泰衡の行き先は平泉しかなく、それなりの軍勢を整えて対峙するに違いない。頼朝は先陣の武将らに平泉を攻撃するときは二万騎の軍勢を整えてから行うこと、千や二千騎で攻めかかってはならぬとの指令を発した。平泉への途中さしたる抵抗もなく八月二十二日頼朝は平泉に到着したが泰衡は平泉の建造物を焼き払って逃亡した後であった。
                  黒子

まちづくりと土地所有権の壁

東日本大震災で津波によって多くの方々の犠牲と景色が一変するほど家屋が被害をうけたことから、新しい街づくりを目指して高台への集団移住の必要性が唱えられた。しかし、現実には土地所有権の厚い壁に阻まれて殆ど進展していないのが実情という。本ブログでも日本に於ける土地所有権が絶対的なほど強く、公共の利益などはほとんど認められないことを訴えてきた。
この問題に対して、朝日新聞の「ニッポン前へ委員会」の提言が記事(8月8日朝刊)になったので紹介する。
この提言が土地所有という絶対的な権利に一石を投ずることになることを期待してやまない。                黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−23)
 3.(1)土地所有の歴史(その8−7)から同(その8−22)まで前九年の役、後三年の役、そして奥州藤原氏のことについて記述してきた。というのは、源頼朝が奥州合戦に臨むまでの奥州の状況を知っておくために敢えてその歴史を遡ったのである。
本稿からは頼朝が奥州合戦に出陣するところから記述してゆく。
 再三泰衡追討の宣旨を下されるよう朝廷に願い出ていたが、義経はすでに成敗されているいま、更に泰衡追討ということになれば天下の大事になるので、今年いっぱいは思いとどまるようにとの宣旨が下された。着々と軍備を進めていた頼朝はこの宣旨に憤慨し、かえって出陣の意向を固めることになった。文治五年七月十七日には作戦会議が開かれ、軍勢を三手に分け、即ち東海道(伊賀国=三重県西部から常陸国=茨城県までの太平洋岸諸国)進撃軍、北陸道進撃軍、東山道進撃軍(大手軍)とし、それぞれ沿道の軍勢を合流させて進軍する。頼朝は自ら大手軍の大将軍についた。同七月十九日頼朝に従って鎌倉から出陣した主な者たちは、武蔵守平賀義信、遠江守安田義定、参河守源範頼、信濃守加々美遠光、相模守大内惟義、駿河守源広綱、上総介足利義兼、伊豆守山名義範、越後守安田義資、豊後守毛呂季光、北条四郎時政、北条小四郎義時、北条五郎時連、式部大夫藤原親能、新田蔵人義兼、浅利冠者遠義、武田兵衛尉有義、伊沢五郎信光、加々美次郎長清、三浦介義澄、三浦平六義村、佐原十郎義連、和田太郎義盛、和田三郎宗実、岡崎四郎義実、岡崎先次郎惟平、土屋次郎義清、小山兵衛尉朝政、小山五郎宗政、下河辺庄司行平、吉見次郎頼綱、南部次郎光行、平賀三郎朝信、小山田三郎重成、藤九郎安達盛長、足立右馬允遠元、土肥次郎実平、土肥弥太郎遠平、梶原平三景時、梶原源太左衛門尉景季、梶原平次兵衛尉景高、梶原三郎景茂、梶原刑部丞朝景、梶原兵衛尉定景、波多野五郎義景、阿曽沼次郎広綱、小野寺太郎道綱、中山四郎重政、渋谷次郎高重、大友左近将監能直、河野四郎通信、豊島権守清元、葛西三郎清重、江戸太郎重長、山内三郎経俊、大井次郎実春、宇都宮左衛門尉朝綱、八田右衛門尉知家、主計允藤原行政、民部丞平盛時、豊田兵衛尉義幹、大河戸太郎広行、佐貫四郎広綱、佐野太郎基綱、工藤庄司景光、狩野五郎親光、常陸次郎為重、加藤太光員、佐々木三郎盛綱、蘇我太郎助信、橘次公業、宇佐美三郎祐茂、二宮太郎朝忠、天野右馬允保高、伊東三郎、工藤左衛門尉祐経、新田四郎忠常、熊谷小次郎直家、堀藤太、伊沢左近将監家景、等々であった。国の守が名を連ねるが範頼以外は頼朝の知行国司の長官もしくは相当者と思われる。なお、城長茂(平家の囚人で梶原景時に預けられていた)が、景時の申し出によりお伴を許されていた。二十五日には下野国古多橋の駅(現宇都宮市内)に到着、二十六日、ここで常陸国の佐竹四郎秀義が合流した。二十八日に新渡戸(下野国那須郡)に到着し軍勢の掌握を行っている。二十九日には白河の関を越え、いよいよ奥州に入った。
                   黒子

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街づくり人

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
多くの方のコメントをお待ちしております。


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