ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−26)
頼朝は七日間ほど厨河柵に留まり平泉に戻って引き続き戦後処理を続行した。まず、陸奥および出羽の土地の台帳である太田文を求めたが平泉の館が炎上した際、焼失したことが分かった。幸い古老によると、豊前介清原実俊および弟の橘藤五実昌がそのへんの実情に詳しいとのことで、呼んで復元可否を尋ねたところ、やってみたいとのことであった。この兄弟は空でおぼえていることをもとに、両国の絵図及び定められている諸郡の土地の証拠文書を作成したのである。若干書洩らしがあったものの間違いはなく、頼朝は感心してこの者たちを召し使うことにした。
郡、郷、荘園(奥六郡、山北三郡および北奥諸郡には荘園はなかった)等土地に関する取り決め事項は秀衡や泰衡がやってきた通りとし、その前提で合戦の功労者に拝領が行われた。一人ひとりの詳細は分からないが、多い者では、例えば葛西三郎清重が胆沢、磐井、牡鹿等数箇所を拝領した一方で、先陣を務めた畠山重忠は葛岡郡(狭小な郡)だけであった。重忠は国衡の首を取ったが、その前に和田義盛が射た矢で負傷させられており手柄は義盛のものになったようだ。また、重忠は先陣を務めたが実際は抜け駆けする者が多くこのことを黙認していた(なるべく多くの武者が手柄を立てられるよう)。
合戦で手柄を立て拝領の栄によくする者がいた一方で領地を没収された者がいた。安芸国大名葉山介宗頼は要請に応じて国を出立したものの頼朝の鎌倉出陣に間に合わず途中から引き返してしまった。もともと奥州合戦は頼朝に組するかどうかを試す踏み絵の性格があったので不参加者に対しては厳格な処置が取られることは見え見えで、案の定宗頼の領地は没収された。
朝廷からの奥州合戦の頼朝に対する褒章は辞退することとし、そのかわり奥羽両国の土地支配を願い出た。先の話になるがこの願いはかなえられることになる。
拘束人や降人の処分については朝廷側の意向もあるだろう故リストアップして連絡した。平泉を中心とした寺社の、特に寺院の数は多数に上るが、従前と同じく所領を安堵し、地頭の介入を戒めた。また、農民等が戦乱をさけて野山に隠れていたが、危害を加えることはしないので、出てきて作業に従事するよう促した
 頼朝は奥州の奉行(平泉の検非違使所の管轄を含む)を葛西清重に命じ、九月二十八日
帰還の途に就いた。途中、多賀の国府に立ち寄って、改めて秀衡、泰衡の先例に倣うよう張り紙まで行った。また、囚人である佐藤庄司基治ほかが赦免され元の所に帰って行った。
                  黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−25)
 文治五年(西暦1189年)八月二十三日、頼朝は京に向けて戦況、即ち八月八日以降合戦に突入し、同二十二日には平泉に到着したが、泰衡は既に平泉には無く、引き続き行方を追っている旨、報告した。二十五日には衣河館にいた藤原基成親子を拘束した。二十六日頼朝の宿所に一通の書状が投げ込まれた。その書状は泰衡からのものであった。曰く「義経を匿ったいきさつは父がやったことで自分は承知していない。父の死後貴命をうけて誅殺したのは勲功であって征伐されなければならぬ道理はない。奥羽は既に(鎌倉殿の)支配下にある以上、許されるものなら御家人に連ねて頂きたい。それが許されないのであれば、死罪をまぬがれ、遠流に処していただきたい。」とあった。対応を審議したが、引き続き心当たりを捜索することになった。九月二日、頼朝は泰衡が潜んでいると思われる岩井郡厨河に向かった。ここはかって頼義が安倍貞任を討ち取ったところで、ここで泰衡を討ちたいと頼朝は考えたようだ。ところが九月三日、肥内郡贄(にえ)柵で泰衡の郎従河田次郎が泰衡を討ち取ったという。九月四日、陣岡(岩手県紫波町)に陣を構えていると、北陸道追討使の比企能員並びに宇佐美実政らが出羽国を平定して合流してきた。
官軍(後に七月十九日付泰衡追討の宣旨到着)の総勢は二十八万四千騎に達した。九月六日河田次郎が泰衡の首を持参した。頼朝はこれを喜ぶところか斬首に処した。泰衡を討つことは時間の問題であって、他人の力を借りる必要はなかった。なのに恩を忘れて主人を討つことは許し難い、という理由である。これは自分の郎従たちへの見せしめでもあったろう。自分の父義朝が平冶の乱で敗れ、東国を目指して敗走している途次、義朝の郎従長田庄司忠致に討たれた無念さも手伝ってのことかもしれない。
  九月八日、鎌倉出陣から泰衡の討ち取り達成までの経過を帥中納言藤原経房に報告した。そのなかで、泰衡は大した貴人でもなく、そもそも代々源氏の家人なのでその首は進上しないと記した。
                  黒子

 | HOME | 

PAGE TOP ▲

Appendix

街づくり人

街づくり人

玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
多くの方のコメントをお待ちしております。


Search

Calender

« | 2011-09 | »
S M T W T F S
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -