ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−30)
 カリスマ的な正二位征夷大将軍頼朝が死んだあと建久十年(西暦1199年)一月二十六日長男頼家が頼朝の遺跡を相続し、諸国の守護を奉行するようにとの宣旨を賜った。既に正五位下右近衛権少将になっていたが同月二十二日付で左近衛中将に転任した。頼家は若輩(まだ十八歳)であったが独裁者のようにふるまおうとした。他からみていると恐ろしく心もとない上に乳母方の比企氏が台頭するのを恐れた頼朝の妻政子が重臣と諮って訴訟については重臣たちの合議で処置することにしてしまった。加えて頼りの梶原景時が失脚滅亡してしまう。頼家の庇護者は比企氏だけになっていたがそんな中重病に陥ってしまう。朝廷には死んだことにされて、頼家の後継者として頼朝の次男実朝に定めるとした。頼家が重病になった時幕府が支配していた所領を西国三十八カ国の地頭職を後の実朝に、東国二十八カ国の地頭職及び惣守護職を長男に相続するという案が浮上していた。(この数字は幕府の勢力状況を知る上で重要な情報であるが、)このことを知った比企能員は相続分割に不満を抱き病床の頼家と密談し、跡目相続を差配している北条時政を討とうと決めた。ところが障子越しにこの密談を政子が聞いてしまい、時政に急報、時政は適当な名目で能員を誘い出し誅殺してしまう。能員の従者が逃げ帰り急を告げたので比企氏一族が館に立てこもった。政子はこれを謀反であるとして御家人からなる軍勢を出動させ比企氏も頼家の長男ともども滅ぼした。病が少し持ち直していた頼家が比企能員と長男を滅ぼされたことを知り、抵抗を試みたが失敗し、政子の命により頼家は出家させられ、そのあと修善寺に幽閉され最後は病没(謀殺説が有力)したことになっている。出家前は正二位征夷大将軍であった。
              黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−29)
 征夷大将軍になった頼朝が次に目指したのは、長女大姫を後鳥羽天皇の後宮にすることであった。その舞台装置となったのが建久六年(西暦1195年)三月に行われた東大寺再建供養であった。頼朝は政子、若君(頼家)、大姫を伴い鎌倉武士団を引き連れて上洛した。今までは関白九条兼実は頼朝の支持者であったが、兼実の娘任子は後鳥羽天皇の中宮であり、頼朝からすればライバルということで距離をおくようになった。その一方で後鳥羽天皇に絶大な影響力を持つ丹後局(高階栄子)と源通親ラインに近付いたが、供養の儀式の合間を縫って彼らと会合を持った。彼らは大姫入内を約束して頼朝の支持を得ると一気に兼実の追い落としに出て、兼実の関白を剥奪し中宮任子も内裏から追われてしまった。所謂建久七年(西暦1196年)の政変である。ところが肝心の大姫が間もなく二十歳の若さで病没してしまい頼朝の計画が無に帰してしまった。それだけではない。丹後局も通親も反幕派でその台頭を許したばかりにせっかく幕府が築きあげた公武強調路線を台無しにしてしまったのである。冷徹な頼朝にとって一生の不覚であった。
頼朝が正冶元年(西暦1199年)一月十三日事故死した。陰謀との説もあるが、以前からしきりに歯を病んでおり気になるところである。生前、寺社の参拝に熱心であり、後白河法皇の一周忌には千僧供も実施している。また、流鏑馬や巻狩りも頻繁にやっていたが、御家人の統制も兼ねていたのであろう。頼朝は奇跡とも思える武士政権の樹立を果たしたわけだが、伊豆配流中に得た母方及び乳母方からの援助、ことに乳母の甥三善康信からの月三度の「洛中仔細」によって中央の情報をリアルタイムで知ることが出来たことや父義朝が築いた軍事貴族としての公武にわたる人脈などを抜きにしては彼の異色ともいえる政治活動を語ることはできない。
               黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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