ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

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3.(1)土地所有の歴史(その8−32)
建仁三年(西暦1203年)九月七日付で、千幡君(頼朝の次男で後の実朝)が朝廷より従五位下征夷大将軍の宣旨を賜った。この時千幡君はわずか12歳であった。当初この千幡君を支えたのが北条時政で政子のもとから時政の館に千幡君を迎えた。しかし、千幡君に随行した阿波局が政子に、時政の後妻、牧御方は害心がうかがえて良くないことが起きかねないと報告した。政子も当初からこの点を危惧していたので、早速、北条義時、三浦義村、結城朝光を派遣して千幡君を政子のもとに迎え入れた。時政がこれを知って理由を尋ねさせると、成人するまで政子のもとで養育するとのことであった。時政はこれ以上の行動を起こしていないのが不可思議である。
初めは些細なことから始まった。元久元年(西暦1204年)十一月四日、時政と後妻の牧の方の娘婿平賀朝雅の京都邸宅で酒宴が催されたとき、朝雅と畠山重忠の嫡子畠山六郎重保とが口論した。同席者が両者を宥めたので、何事もなく散会となった。しかし、後になって朝雅が牧の方に畠山親子に叛意ありと讒言する。牧の方は時政にこのことを訴えると時政は自分の子義時と時房に重忠の討伐を相談した。初めは断られたが牧の方の兄大岡時親に説得されてしぶしぶ同意するという流れであった。畠山親子は流言によって誘き出されそれぞれ討たれてしまう。元久二年(西暦1205年)六月のことであった。畠山氏の遺領は勲功のあった者および女房達に分け与えられている。
たまたま将軍家(実朝)が時政の館にいるとき(政子の家に引き取ったのになぜ時政のところにいたのか事情がわからないが)のことである。牧の方が将軍家を滅ぼし平賀朝雅を将軍にしようとしているとのうわさが立ち、政子は長沼宗政、結城朝光、三浦義光、天野政景等を遣わし、将軍家を迎えられ、将軍家はすぐ義時の館に入った。時政も御家人を招集したがすべては義時邸に向かって将軍家を守護した。時政は情勢を悟りその日のうちに出家した。時に同年七月十九日のことである。しかし、どうもすっきりしない。このあとすぐ時政の嫡男義時が執権職に就くのだが、飛躍がありすぎないか。ただ単に家督を義時にゆずっただけで義時が執権になれるとは思えない。小豪族にしかすぎない北条氏がなみいる御家人に伍してそのトップにつくには実績がなければならないが、義時にはそれがないように思える。まったく私見だがこれは義時に手柄をたてさせる芝居だったと思う。まだ幼い実朝を擁立したものがトップにたてるので、政子の館から時政の館に移し、陰謀があると称して実朝を義時の館にかくまうと時政はすぐに出家し、実際上義時に執権職を譲ったのである。
義時は執権職を承り、広元、三善康信、安達景盛らとはかって朝雅を誅殺させた。
              黒子 

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3.(1)土地所有の歴史(その8−31)
ここで大田文について触れておきたい。大田文は平安時代末期から鎌倉時代に盛んに作成されたと言われている。頼朝が藤原泰衡を滅ぼして奥州を制覇した時、真っ先に大田文の所在を確認したことはこのブログでも触れたところであるが、この時点で既に大田文は全国的にも存在していたと思われる。大田文は土地を管理(特に年貢の取り立て等)していくうえで重要な基礎資料であるから、常に最新の状態にしておくことが肝要であった。吾妻鏡の正治元年(西暦1199年)十一月三十日条に、武蔵国の田文(大田文の事)を整えたとある。これは頼朝の代の時(建久七年=西暦1196年の事だが吾妻鏡が欠落していて詳細不明である)武蔵国は朝廷から頼朝の知行国(国司:平賀義信)とされたことから、惣検注(全体の正式土地調査で国司交代の時によく行われた)が行われた後、田文として整えられていなかった、ためとしている。そして同じく承元四年(西暦1210年)三月十四日条に武蔵国の田文の作成と国務の条々を改めて作成したとある。国務の方は理解できるが田文の方は同じような理由が記されているので正治元年の方が完成してなかったのか、それとも吾妻鏡の欠落で多少混乱しているのか、この後も同建暦元年(西暦1211年)十二月二十七日条に明春、駿河・武蔵・越後などの国々の大田文を作成して整えるよう二階堂行光・清原清定に命じたことが記されている。なお駿河・武蔵は知行国であるが、越後国が知行国になるのはもう少し後である。 ただし、越後の御家人城氏が恩義のある梶原景時滅亡をうけて打倒鎌倉幕府を唱えて決起し、幕府軍に滅ぼされているので、その所領を手に入れたことによるのかもしれない。なお、武蔵国については同承元元年(西暦1207年)三月二十日条に、武蔵国の荒野を開発せよと地頭等に命じているので、開発の完了を見越して(実際に完成して土地の調査に向かわせるのは同建保元年(西暦1213年)十月十八日条に記されている)大田文作成を命じたとも考えられる。なにはともあれ、かくのごとく度々大田文を作り替えていることが示されている。
現存する大田文を分類解析した石井進氏の研究によれば一国内荘公すべての田数等を記す物と一国内荘公すべての田数及び領主、特に地頭について仔細に記す物があって、前者は国衙側大田文、後者は幕府が国衙在庁に命じて作成させた大田文だという。
頼家の不発に終わった土地政策を記しておこう。源性という算術の達人がいて、頼家にかわいがられていた。この者が鎌倉に立ち寄ったので頼家が政所に命じて諸国の田文を提出させ、源性に田地の勘定をさせた。冶承・養和以降(頼朝挙兵以降と思われる)の新恩の土地は人別に五百町を過ぎるものは余剰分を召し上げ、所領が無い者に分け与えるよう大江広元に命じたことが吾妻鏡正治二年(西暦1200年)十二月二十八日条に書かれている。広元以下の宿老は大いに慌てた。三善康信らがなんとかこれを諌め、この場をおさめたが、明春には実施すると断念してないことを表明した。しかし、その後実施されたという記述はない。
                黒子

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