ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−34)
ここで、天皇家領について触れておきたい。律令制下に於いては土地及び人民は所謂公地公民制であるから、私有ではなかったが、人民の浮浪や戸籍の偽籍化により税の徴収が困難となり、公領は班田を廃止して名制度に変わり、私有の田地である荘園が発達してくると律令制下で定められていた官人への食封などの給付がきちんとなされない事態が生じてきた。この状況は自分の糧を自ら確保しなければならないという家産化の動きを誘発させた。また家産を守ってゆくために従来の緩い血縁関係の集合体である「氏」から血筋、特に嫡流の系譜でつながる「家」が登場してくることになる。この「家」は田地のほかに場合によっては「職」も家産として取り込んでゆくのである。天皇家が家産を蓄積したのは白河、鳥羽、後白河の院政時代が顕著で、院庁下文によって自ら立荘したり、公家・寺社から本家職として寄進を受けることによって、短期間のうちに膨大な荘園を集積していった。ただし、院という地位に集積されたのではなく、院の身近な血縁者や御願寺に付属させたのである。鳥羽上皇の場合は皇女の八条院損辧覆靴腓Δ掘砲僕燭┐蕕譴燭里波条院領と呼ばれ鎌倉期には二百二十ヶ所以上に上った。その後後鳥羽天皇・亀山上皇に伝えられ以後「大覚寺統」に伝領されていった。後白河法皇の場合は御所六条殿の中に設けた寺仏堂である「長講堂」に付属させた「長講堂領」で、最盛期には百八十カ所に及ぶと見られ、そののち後深草天皇を経て「持明院統」に伝えられた。院の身近な血縁者や御願寺に付属させたのは、家産が政争に巻き込まれないように考えてのことであったのだが。
                黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−33)
鎌倉幕府二代将軍源頼家の遺児に千寿丸という者がいた。源氏満仲流の信濃の御家人泉親衡がこの千寿丸を擁立し北条義時を討とうという企み(泉親衡の乱)が発覚し、和田義盛の子息義直、義重並びに甥に当たる胤長もこの陰謀に加担したとして拘束されるという事件が発生した。義直、義重は義盛の度重なる勲功に免じて実朝が罪を許した。義盛は一族を率いて胤長の赦免を願い出たが、首謀者と見做された胤長は許されず、後手に縛られて一族の面前で預かり人に引き渡された。胤長は間もなく陸奥国岩瀬郡に配流された。胤長の屋敷地は願いによって義盛に与えられたが、間もなく義時が泉親衡の乱平定に功績のあった金窪行親・忠家に与えると決め義盛の代官を追い出した。度重なる屈辱に義盛の義時に対する反感がつのった。義盛は義時を討つことを決心し一族である三浦義村にも味方をするよう要請し、義村は同心の起請文まで書いたが、義時側に寝返ってしまう。義盛にとっては予想だにしていなかったがいまさら後にも引けず、かといって地方の加勢の到着を待つこともできずに合戦(和田合戦)に突入した。戦況は義盛側が押され気味だったが義盛救援の加勢が馳せ参じ、次第に義盛側が勢いを盛り返した。これに危機感を覚えた義時は広元と諮って、実朝の花押が入った御家人蜂起の御教書を発すると、多くの御家人が加わり幕府軍となって参戦した。
義盛は幕府の大倉御所を襲撃し炎上させたが、義直が打ち取られたあたりから士気を失い幕府軍の大軍によって全滅させられた。前々から目障りな存在である義盛に対して義時は執拗に挑発し、本来義時個人に対する恨みであったはずが、幕府を相手に戦う羽目になるよう誘導した義時側の勝利である。義盛自身にも他の御家人から浮き上がったところがあった。かねてから上総国の受領(上総は親王任国であるが、NO.2が事実上のトップであったから上総介が受領であった。)に推挙されるよう実朝に要望していたが、実朝が政子に相談すると、頼朝の時代は受領任官を停止していたと聞かされ、実朝も推挙をしなかった。当時の上総国は頼朝によって誅殺された、上総介広常の所領・所職を千葉常秀と義盛に二分していたので、義盛が上総介に任官すれば在地支配の面で常秀は義盛の支配下に置かれることになりかつ、義盛は北条氏と肩を並べる存在になるのである。御家人間の序列の急激な変化は御家人の不満の種を蒔くようなもので必ずしも好ましくはなかったであろう。義盛等の所領(甲斐、相模、武蔵、上総、常陸、上野、陸奥七カ国の荘園・公領二十五か所)・所職は没収され、戦功のあった者(北条義時、大江広元、北条泰時、北条時房、三浦義村、武田信忠、島津忠久、金窪行親等)に分与された。
義盛は幕府草創のころから侍所の別当(一時梶原景時の希望で別当を景時に譲った時期もあったが)を務めてきたが、義時が政所別当に加え侍所別当を兼務し、執権体制を確立することになる画期となった。
                黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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