ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−36)
それはある土地の支配をめぐる朝廷と幕府のいざこざからはじまった。後鳥羽院の愛妾で白拍子の亀菊が与えられていた長江、倉橋両荘の地頭職を停止するよう後鳥羽院に嘆願し、後鳥羽院は亀菊の甘えをきいて二度も宣旨を下したが、執権義時は、頼朝の代に勲功の恩賞として補任した地頭は過失がないのに更迭することはできませんと突っぱねたのだ。これに怒った後鳥羽院が義時追討の宣旨を五畿七道に発した。幕府側も中枢が集まって対応策を審議した。一旦は足柄および箱根道の関所を固めて追討軍を迎え撃つことに決したが、またもや広元の積極策で、すなわち兵を京都に派遣しようということになった。その兵は東国武士を指すのであって、義時個人の兵ではない。後鳥羽院はあくまでも義時を追討せよとの宣旨を発したのだが、政子が御家人を集めて頼朝の御恩は山よりも高く、海よりも深いのだから、その御恩に報いなければならない、と訴えたから、話がすり替わってしまったのである。後鳥羽院にしてみれば北条氏に不信感をもつものは必ずいるはずで、事実幕府の有力御家人である梶原氏、比企氏、畠山氏、和田氏は北条氏によって滅ぼされたのだから、錦の御旗を掲げれば多くの御家人や武将が参集するはずと考えたとしても不思議ではない。後鳥羽院の義時追討軍はいまや絶大な勢力を有する、いざ鎌倉に参集する武士団を相手にすることになってしまった。これぞ朝廷と鎌倉幕府(幕府という言葉は当時なかった)の対決という構図になってしまい、世にいう承久の乱へと突入した。時に承久三年(西暦1221年)五月のことである。在京の御家人は後鳥羽院側についたが、京都守護は断ったために官軍に滅ぼされている。後鳥羽院側に就いた御家人の中に三浦胤義がいる。実朝死後の将軍後継問題で三浦氏は頼家の子禅暁を将軍につける意向をもっていた.なぜなら、禅暁の母は頼家の死後、胤義の妻となっており、禅暁の将軍就任は願ってもないことであった。しかし、このことを恐れた義時によって、禅暁は誅殺され、胤義は義時を恨んでいた。だが、胤義の兄義村は義時側についた。和田氏追討の時も和田氏を裏切ったが、今回は弟を敵にまわした。
幕府軍は東海、東山、北陸道の3ルートで京に攻めのぼることにし、東海道軍は北条時房、北条泰時、北条時氏、足利義氏、三浦義村、千葉介胤綱を大将に十万余騎、東山道軍は武田五郎信光、小笠原次郎長清、小山新左衛門尉朝長、結城左衛門尉朝光を大将に五万余騎、北陸道軍は北条朝時、結城七郎朝広、佐々木太郎信実を大将に四万余騎の軍勢であった。
官軍と幕府軍との合戦は幕府軍の一方的な勝利と思えたが、官軍もよく善戦し、また幕府軍には皇統に対する畏敬の念があるため、奥州合戦のように一方的な勝利ではなく、犠牲もかなりあったようである。
                 黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−35)
二代将軍源頼家に比べれば三代将軍源実朝は安定した政務をこなしたといえる。また、元久元年(西暦1204年)十月に坊門信清の娘を妻としたことから後鳥羽院と姻戚関係を結んだことや和歌、蹴鞠といった宮廷文化にも熱心であったことが作用してか朝廷の受けもむしろ良かったといえよう。ただし、関東御分国と言わしめた知行国は頼朝の代では九カ国だったのが、実朝の代では四カ国に減少している。幕府が設立当時より安定してきたからだとする説もあるが、朝廷との力関係が弱まったと考えるのが普通ではないかと思う。そして深刻な問題を抱えていたのである。それは四代将軍となるべき後継者の誕生がないことであった。次善の策として朝廷にお願いし、親王を将軍にする策を進めていた。そのため親王に位負けしないようより上位の官位を目指していた。そして皮肉にも右大臣任官の拝賀のため鶴岡八幡宮に参り、式が終わって退出するとき、頼家の二男で鶴岡八幡宮の別当になっていた公暁(出家するまで実朝の猶子)に惨殺されてしまう。時に承久元年(西暦1219年)一月二十七日、正二位征夷大将軍右大臣源実朝二十八歳であった。
実朝の生前にあっては、将軍就任のため親王(後鳥羽院の二人の皇子のいずれか)の下向は後鳥羽院も同意していたところであったが、実朝なきあと一転して後鳥羽院はこれを拒否してきた。鎌倉側としてはやむなく、名門貴族の子弟で源家将軍と血縁関係にある人物を迎えることで手を打った。すなわち頼朝には妹がいて、権中納言一条能保に嫁していたが、その孫娘が九条家の摂政・関白道家に嫁して生まれた男子三寅(みとら)を承久元年(西暦1219年)六月、将来の将軍として迎えたのである。先々のことであるが、頼家には竹御所と呼ばれた娘がいたが、寛喜二年(西暦1230年)十二月九日、この竹御所が幼名三寅こと頼経の正室に迎えられている。頼経十三歳、竹御所二十八歳であった。その四年後の文暦元年(西暦1234年)三月竹御所が妊娠して着帯の儀が行われ、御家人の期待を集めたが、同年七月死児を生み、間もなく自身も死亡してしまった。政権安定化のシンボルと見られ、カリスマ性がただよう竹御所の死は御家人に衝撃を与え、京都にいた御家人さえもほとんどの者が鎌倉に参集したのである。竹御所の死をもって頼朝の血筋は、ただ一人三男(鎌倉の殿中に仕えていた大進局に頼朝が生ませた子)の貞暁が生存していたが、ほかは病死または非業の死をとげている。貞暁にしても出家していたため子がなく、頼朝の嫡流は完全に絶えてしまうのである。

                 黒子

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