ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−38)
ここで本補地頭と承久の乱後に成立した新補地頭について述べたいと思う。既述のように、本補地頭の権限は頼朝自身明確に規定していないため、断定は出来ないが、年貢や課役の徴収を保証し、その前提として警察権、荘園の下司の権限(給田、給名を含む)を引き継ぎかつ荘園の下地を領掌する権利を与えられていた。
一方、新補地頭は貞応二年(西暦1223年)六月十五日付宣旨の「新補率法」として定められている。その内容は
顱ヅ槌10町ごとに1町の給田畠の付与
髻ヅ槌1段当り5升の課徴米の徴収権
鵝セ殻邁漏い亮益は荘園領主・国司と折半
堯ッ脇の検断による犯人の没収財産の1/3を地頭に帰属
である。
 新補率法が発令されると承久の乱で幕府が獲得した多くは西国に存在する所領に地頭として補任された多くの御家人達が在地領主として移住していった。例えば大江広元を祖とする毛利氏や、熊谷氏は安芸国、また、豊後には大友氏、薩摩には千葉氏・渋谷氏などである。新補率法制定を境として日本国における御家人(東国武将)の分布が全国に及んだが、西国の民にとってはカルチャーショックをうけたそんな出来事であった。
以前にも触れたが、幕府は貞応二年(西暦1223年)四月、太田文の作成を全国に命じている。本舗地頭は当然として、新補地頭の権限がどのように扱われたか不明だが新補率法が発令されるわずか二カ月まえであるので織り込みずみと思われる。
                    黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−37)
官軍は宇治では北条泰時が、勢多では北条時房が率いる幕府軍に敗れると総崩れになり、後鳥羽院はとうとう承久三年六月十五日院宣を泰時の陣に遣わした。その内容は「この度の合戦は後鳥羽院の御意志ではなく、謀臣らが申して行ったものである。今となっては泰時らの申請通りに宣下しよう。洛中で狼藉を行わないよう東国武士に命じるように。」であった。三浦胤義は洛中に退いて東寺にこもり三浦・佐原の手勢と合戦になり、双方に犠牲が出たが、胤義は西山の木島(現太秦森ケ東町木島神社付近)におちのびて自害した。胤義の郎従がその首をとって隠そうとしたが、義村に見つけられ、泰時に献上された。ここまでして三浦氏の忠誠をアピールしているのだが、所詮は北条氏からみると邪魔な存在であり、四半世紀後には三浦氏の嫡流は滅ぼされる運命である。
泰時、時房は六波羅の館に入り、承久三年(西暦1221年)六月十六日飛脚によって義時に戦勝の報告をした。
承久の乱の戦後処理は苛烈を極めた。後鳥羽院は隠岐島へ、後鳥羽院の第三皇子で積極的に討幕計画に共鳴し、承久の乱直前に四歳のわが子仲恭天皇に譲位した順徳上皇は佐渡島へ、後鳥羽院第一皇子で意に反して順徳天皇に譲位させられた土御門上皇は討幕に反対で加担してなかったが、自らの意思で土佐に、それぞれ配流された。更に後鳥羽上皇の皇子で六条宮、冷泉宮はそれぞれ但馬国、備前国に配流となった。仲恭天皇は廃され、かわってのちの後堀河天皇が即位した。乱に加担した公卿と断じられ処刑されまたは自亡したものは参議一条信義、中納言藤原宗行、按察使葉室光親、参議藤原範茂、二位兵衛督源有雅であった。御家人でありながら朝廷側に加担した者は当然死罪を免れなかった。
京方の公卿や武士の所領三千カ所を没収し、幕府方の御家人に分与された。頼朝の時代に当初守護地頭を全国に配置したものの、西国では抵抗が強く実施できたのは東国に限られていたが、西国にも地頭がおかれるようになり、当初の地頭(本補地頭)と権利関係を異にする新補地頭(新補率法)として定着していく。
院の伝領である長講堂領や八条院領は一旦幕府に没収され、のちに冶天の君に管理は委ねるものの、最終的な所有権は幕府に帰属した。
                      黒子


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