ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−40)
前稿で鎌倉幕府内に鎌倉幕府の立ち位置をめぐって対立があったことを述べた。すなわち幕府を朝廷の分肢とするか東国独立勢力とするかである。その兆しが現れたのが治承四年(西暦1180年)十一月の富士川の合戦で、敗走する平家を追って京に上ろうとした頼朝に対して千葉常胤、三浦義澄、平広常等が反対したのがそれである。まだ佐竹一族が帰伏せず東国の情勢が不安定ないま上洛するのは時期尚早であるというのがその理由であった。東国独立派の政権構想はトップとして頼朝では全く役不足で、天皇家に匹敵する貴種を据える必要があったが、もとより頼朝の意図するところではなかったろう。朝廷との交渉を繰り返した頼朝が寿永二年(西暦1183年)十月宣旨を勝ち取って、頼朝の構想が実現したがその前後に平広常が誅殺されている。
元暦元年(西暦1184年)十月四日頼朝は公文所を設置し、大江広元を別当に、同じく十月二十日問注所を設置して三善康信を執事に任命していたが、文治元年(西暦1185年)四月二十七日従二位に叙せられると公文所を政所(従三位以上に許される家政機関)に改め、建久五年(西暦1191年)一月、頼朝が上洛して右近衛大将、権大納言に任じられたが、間もなく辞退し、翌年一月十五日前右大将家政所の吉書初めを行い、御家人に対する所領恩給を従来の頼朝花押の入った奉書に代わって前右大将家政所下文の様式に代えた。そして在来の奉書を回収し、改めて下文を発給した。この行為は頼朝が朝廷の官職(先々征夷大将軍になる)に就いても御家人にたいする所領恩給は幕府として宛行う行為であると主張しており、朝廷と御家人の主従関係を断ち切る意図があったのではないかと思う。東国独立派に配慮したものなのかと思う。それにしても頼朝(落馬説はあまりにも不自然であり、謀殺されたと考える)頼家、実朝、そして御家人トップの梶原景時、比企能員の暗殺や誅殺と続き朝廷分肢派への反感はすさまじいものがあった。
               黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−39)
承久の乱の始末の付け方として幕府は天皇家については三上皇と二親王を配流としただけでそれ以上の過激な処置は行わなかった。なぜ幕府が日本国の頂点におさまらなかったのであろうか。今までの流れからするとそこに帰着するし簡明であるのだが。吾妻鏡にもその承久三年(西暦1221年)六月十五日状に、「八十五代続いた天皇家が絶えようとしている」、とまで記述している。つまり天皇家がなくなってしまうかもしれないという想像力はあったのである。想定外ではなかったはず。しかし、実行されなかった。調査不足で理由を記した資料に巡り合えていないが、想像では\鏡垢箋礎腓蘯最圓靴討い覘◆函峙岨」を討て!”をすり替えたことがばれて北条氏が反感を買う5方に寝返った御家人も結構いたので御家人の統制も簡単ではない(もともと御家人は東国独立派と幕府の朝廷一機関派が混在しているという説あり)に名鮖瓩呂擦い爾ぜ晃◆幣軍の補佐)程度の格、等ではないだろうか。結局統治体制は従来通りとし幕府の意向として後鳥羽上皇の兄の行助(ぎょうじょ)親王を上皇(後高倉院)に、後高倉院の皇子茂仁親王が天皇(後堀河天皇)に即位した。幕府側からみた朝廷管理者として親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経を内大臣に抜擢し、朝廷を幕府の意向を反映させることにした。
幕府方の人事として京都に進駐した泰時と時房は京都に残り京都守護に代わって六波羅北方と六波羅南方なる役所を治めることになった。その任務は、洛中の警備、朝廷の監視、尾張以西の軍事及び裁判であった。
              黒子

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