ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−46)
重忠討伐は義時、時房兄弟の反対で中止になるかと思えた。しかし、備前守大岡時親が牧の方の使いとして義時邸にやってきて、牧の方が「畠山重忠の謀反はすでに発覚している。その仔細を時政に伝えることはした。しかるに貴殿は重忠になりかわって弁明し、まるで私が讒言したかの如き言い方をした。それではまるで私が継母(義理の娘が重忠の妻)なので重忠を陥れようとしたかにみえるではないか」と言っていることを申した。これに対し義時は「よくよくお考えください」と申した。つまりこの段階でも義時は重忠の謀反を認めてはいなかったととらえるべきだろう。ところが時政は強引に重忠討伐にむけ御家人に出動の催促を行い、義時を大手軍の大将軍に任命したので、義時は従わざるを得なかったというところだろう。そして、時政一流の陰謀をめぐらし、重保を鎌倉に誘き出して誰かが謀反を起こしたと流言し、重保が何事かと出て行ったところを囲まれ、自分が謀反の濡れ衣を着せられたことに気が付き大いに抵抗したが、討ちとられた。一方、重忠には適当な口実を設けて鎌倉に出てくるよう手を打ってあった。重忠討伐軍が鎌倉を出立し武蔵国二俣川で重忠の一行134騎と遭遇する。ここで重忠ははめられたと気がつくが悪あがきをせず、身の潔白を証明するため、清く戦って全員討ち死にした。1205年六月二十二日のことであった。きしくも義時の四郎政村(母は伊賀の方)の誕生と重なった。義時は時政に抗議した。「重忠が謀反を企てていたのなら、一族郎党を率いて攻め上ってくるところ、たったの134騎とはどうしたことか。そもそも謀反など起こす気はなかったということだ」。他の御家人も人望があった重忠をおとしめることに手を貸した者を探し出して討ちとった。時政は御家人達の不信感をうけ、追い詰められた。七月八日、政子が重忠討伐で勲功のあった者に、重忠の所領を分け与えた。時政には権威も権力もなくなったため政子が幕府の前面に出たことを示している。そして閏七月十九日、牧の方が実朝を殺害し牧の方の娘婿、平賀朝雅を将軍に据えようとしているという風聞が流れた。政子は結城朝光、三浦義村、天野政景を時政の名越邸に派遣し、実朝を義時邸に迎え取った。将軍を警護していた者たちも「将軍家守護」を唱えてこれに従った。時政は軍勢の催促をしたが従う者は誰もおらず、もはやこれまでと悟って出家した。義時はさらに伊豆北条に隠居するよう強要した。牧の方も伊豆に下向した。平賀朝雅は京都に於いて誅殺された。政子と義時の見事な連係プレイであっけないくらい政権奪取をおこなった。抜け目なく三浦義村を味方につけている。義時はすぐさま政所別当に就任し、のちにいう執権の座についた。勿論形式的には将軍実朝の命を受けてのことだが、政子が命じている。しかし、実朝が成人すればこの論理はおかしいわけで、誰が見ても執権たるべき状況をつくりあげねばならぬと自覚していたはずである。従来政所別当は複数在籍していたので、合議によらなければ物事をきめられない。そこで目をつけたのが侍所別当の座である。初代は和田義盛であったが、梶原景時にその役をやらせてくれと頼まれ、短期間のつもりで景時にやらせていた。ところがそこに居座り続けていて結局義盛にこの役が戻ったのは景時が失脚してからである。                      黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−45)
頼朝が鎌倉に凱旋したことで、有力御家人達は鎌倉に居を構え、家族を住まわせることになったであろう。時政は名越か大町に、義時もしかるべきところに居を構えた。1183年、側室阿波の局との間に江間太郎泰時(幼名 金剛)が生まれた。1189年時政に若き正室牧氏との間に待望の嫡男政範が誕生し、この時点で義時は北条本家の家督相続人ではなくなった。伊豆北条が北条氏の本拠地だが、その隣合わせに江間地区がありこの地を時政から与えられ義時は江間氏の祖になったわけである。泰時の仮名が江間太郎であるのはこのことによる。同年時房は元服して諱を時連、仮名を五郎と称した。同じく家督相続人でなくなったことを示している。1193年正室姫の前との間に義時の次男朝時が誕生するが、1194年頼朝が烏帽子親になって長男金剛の元服式が行われ、江間太郎頼時(後に改名して泰時に)と称した。泰時は正室との間の第一子を差し置いて嫡男であることを内外に示したわけである。1198年には義時の三男(朝時と同腹の重時)が誕生する。1199.1月頼朝が薨去し頼家が二代将軍の座についたが、政子によって独裁政治を停止され、合議制にした。北条氏から時政と義時がそのメンバーに加わった。1200年に側室との間に義時の四男六郎有時が誕生する。ほぼ同じ時期に六十六人の有力御家人の署名をもって梶原景時排斥の訴えが頼家になされた。この六十六人の中に時政、義時親子の名はない。1203年泰時の長男で後の時氏誕生。1203年8月、頼家が重病になったことを良いことに時政は三代将軍に実朝を就任させる手続きを始めた。これを知った比企能員が頼家に会って北条氏打倒を相談した。しかし、政子にこの密談を知られてしまい、時政に能員が謀殺される。時を移さず、比企一族に攻めかかり滅ぼしてしまう。頼家の嫡男一幡も焼死した。1203年9月実朝が三代将軍について、その後見に時政が就任する。実朝の親権は政子にあったわけだが、時政に委任という形式をとった。ここから時政の独裁政治が始まり、時政単独の署名による「下知状」をもって御家人を従わせた。1204年三月六日義時叙爵(従五位下)。1204年時政の嫡男政範が実朝の正室になる坊門信清の娘信子を鎌倉に迎えるため上洛していた。上洛途上から病気になり回復しないまま十一月五日16歳の若さで京に於いて急死してしまう。既に叙爵していた。ちなみに義時が叙爵したのは42歳、泰時34歳の時であったから、牧の方の存在もおおきかっただろうが北条氏の爵位を総なめにしていたのではないか。同年実朝と信子の結婚式が行われたが政範の死から時政の歯車が狂いだす。時政自身畠山重忠とは比企氏とつながりのあった児玉党を時政へ被官させようとして揉めていた。そんな時京都守護職で時政の娘婿平賀朝雅と重忠の子重保が京都で口論になり、朝雅はそのことを根に持ち、義母牧の方に讒言した。政範を失って鬱々としていた牧の方は時政に重保の無礼を告げると、時政の頭の中で重忠とのもめごととが結びつき“重忠親子を誅殺しなければならぬ”となってしまった。義時、時房をよんでこの計画を打ち明けたが、義時の反対で中止になるかに見えた。
                  黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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