ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−48)
義時の急死の報をうけ泰時、時房、足利義氏等が鎌倉に到着した。1224年六月二十八日、政子は時房、泰時を三寅の御後見になることを命じた。この段階で巷では、泰時が弟たちを討つとか、光宗兄弟が政村主の外戚として(政村が)執権になるべきではないのかとか、後室は一条実雅を将軍にたて、政村をその御後見(執権)に、光宗兄弟に武家の成敗(侍所別当か)を任せるなどと企てている等々の噂が流れていると、泰時の側近がおよそのことを伝えたが、泰時は「事実ではあるまい」と述べ、身辺を静寂に保つため出入りの者を制限した。翌二十九日、掃部助(北条)時盛(時房の長男)と武蔵太郎(北条)時氏(泰時の長男)を上洛させた。京畿の人の思惑をさぐることと警護を目的とする。同年七月五日、伊賀兄弟が三浦義村のもとを何度も往還した。同年同月十七日、政子が義村邸を訪れ、伊賀方と義村が不審な動きをしているのではないかと追及する。義村は義村と政村はかかわりが無いこと、光宗兄弟にはなにか考えていることがあることを告げる。義村は光宗兄弟を説得すると約束する。翌十八日、義村は泰時邸を訪れ、昨日のことを泰時に報告した。同年閏七月一日、世情が一向に落ち着かないので、政子は非常手段に出る。すなわち、三寅と政子が泰時邸に乗り込み、時房を同席させて義村を呼びつけて拘束し、更に宿老達を呼び集めて政子の方針(泰時を執権に、時房を連署に任命し、伊賀氏を処罰する)を伝えた。異論は出なかった。翌々日(閏七月三日)政子の御前で(吾妻鏡では出席者は時房、広元、記録係を関左近大夫将監実忠が務めているが、このほかの出席者の名前が明記されていない)審議が行われた。(伊賀)光宗らが宰相中将(一条)実雅卿を関東の将軍にたてようとし、その奸謀は既に露見した。実雅は公卿なので、京に送還して処分を仰ぎ、伊賀氏と光宗等については流刑とする。その他の者はたとえ一味の疑いがあっても罪科は問わないことに決した。後日判明した具体的な刑は、実雅は解官の上、越前国に流刑、伊賀の方は伊豆に下向・籠居、光宗は政所執事の解職と所領五十二カ所を没収の上、信濃に配流、光宗の弟朝行・光茂は鎮西に配流となった。同年同月二十九日、尾藤左近将監景綱が泰時の後見となった。一説によれば、政子の泰時への干渉対策と言う。同年十二月四日、伊賀の方が危篤の知らせがあった。1225年六月十日、大江広元死去、78歳。同年七月十一日、政子薨去。69歳。同年八月二十七日、伊賀四郎朝行、同六郎光重が政子の追善のための恩赦で幕府に復帰した。同年十二月二十二日、伊賀光宗が同じく恩赦で幕府に復帰し、所領八カ所を返付された。1180年頼朝が挙兵してから四十五年の歳月が流れ、鎌倉幕府のフンダドール達は姿を消した。鎌倉幕府の新しい歴史が始まろうとしている。しかし、伊賀の方の事件はまだ終わっていなかった。1227年、承久の乱の首謀者である尊重が逮捕、誅殺されたが、伊賀の方が義時に毒を盛って殺害したことを証言した。やはり、陰謀は存在したのであった。翌年1228年一条実雅が配流先で変死(河死)を遂げている。尊重の証言となにか関係があったのであろうか。
                 ―黒子―

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−47)
梶原景時の失脚で再び侍所別当の座は和田義盛に戻った。1208年義時六男の五郎実泰(政村と同腹)が誕生。1212年五月五日次郎朝時が女性問題で実朝の逆鱗に触れ、義時は朝時を義絶し、蟄居を命じた。常識的に義時からの相続権も剥奪されたと考えるべきだろう。ところが丁度一年後の1213年五月に和田合戦が勃発すると復帰を命じられ合戦に参戦している。義絶は一年だけで名誉を回復したことになる。義時は和田合戦に勝利し侍所別当に就任した。執権の地位を盤石なものにしたのである。これは義時自身が築いた地位だ。なお和田合戦については既に触れているのでここでは省略する。1213年十二月二十八日四郎政村が元服(烏帽子親は三浦義村)した。1215年一月八日時政死去。78歳であった。1216年泰時叙爵、34歳。1218年七月二十二日、泰時が義時から侍所別当に任じられた。同年、政子が従三位に叙された。この叙位は実朝に子が無いことで、熊野詣にかこつけて内密に政子が後鳥羽上皇の親王(頼仁親王)を四代将軍につけたいと上皇に絶大な影響力をもつ卿局藤原兼子に働きかけ卿局も朝廷にとって良い話なので親王将軍実現を内諾し、その恩賞としての叙位であった。更に同年十一月には従二位に叙されている。ところが、1219年一月二十七日実朝が暗殺されると、親王将軍計画は上皇に反対され、あせった政子は幕府に協力的な西園寺公経に頼み込んで後の将軍頼経(幼名三寅)を下向させることになったのである。同年二月十四日伊賀光季を京都警護のため上洛させた。上皇は幕府討伐を考えるようになり、そのきっかけを探していたところ、舞姫亀菊から申請があった摂津国長江、倉橋両荘の地頭の停止を幕府にぶつけてきた。これに対し幕府は「頼朝から補任された地頭をさしたる落ち度がないのにやめさせることはできない」との結論に至る。同年三月十五日、地頭の件の返事と三寅お迎えのため時房を政子の名代として千騎の軍勢を随兵させ上洛させた。同年七月十九日一条実能卿が随行し三寅(二歳)一行鎌倉に到着。同年九月六日、伊賀次郎左衛門尉光宗が政所執事に補任。同年十月二十日一条実能と義時・伊賀の方夫妻の娘が結婚式を挙げた。1221年五月十四日、義時討伐の宣旨が発せられ承久の乱勃発。一条実能の異母弟尊重は首謀者の一人になっている。同年同月十五日京都守護伊賀光季が官軍に攻撃され自刃。同月二十一日西園寺公経等が監禁される。同月東海道方面軍の大将軍泰時に泰時の息子太郎時氏、弟の六郎有時、同五郎実泰等京に向け鎌倉を出発。東海道方面軍別働隊として大将軍時房、三浦義村等出発。北陸道大将軍として式部丞朝時出発。同月二十五日までに北陸道大将軍武田五郎信光等出発。幕府軍と官軍の戦闘が繰り広げられたが同年六月十五日官軍敗北。翌十六日時房、泰時六波羅に入る。承久の乱の経過についてはすでに記したので省略する。承久の乱から三年後の1224年六月十三日義時急死。享年六十二歳。同月十八日、義時の葬送が行われた。式部大夫(北条朝時)、駿河守(北条重時)、陸奥四郎(北条政村)、陸奥五郎(実泰)、陸奥六郎(有時)、三浦駿河次郎(泰村)等が参列した。義時の息子たちの序列は庶子の有時以外は生年順になっていた。                                                          
                 ―黒子―

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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