ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−52)
政子は実朝暗殺の実行犯である別当公暁の一味を糾弾せよと号令した。暗殺現場では公暁と思われる人物が主犯で、共犯者が複数人いたことが確認(吾妻鏡にはそのへんの記述が無い)されているからであろう。真っ先に公暁の坊を急襲すると弟子たちと合戦になっていることから、公暁の弟子たちを一味と認定し、これらを誅殺している。また、実朝暗殺に加担したと思われる人物を次々と取り調べたが、供述が事実その通りだったのか、それともうまく追及をかわしたのか、嫌疑者に義時がおとがめなしの「書」を下している。但し、実朝暗殺後、公暁が立ち寄った公暁の後見、備中阿闍梨の雪の下の屋敷地と武蔵国の所領などが没収されている。承久元年(西暦1219年)二月六日、故公暁の使者の白河左衛門尉義典が伊勢神宮に奉幣を終えて帰途する際、美作宿で公暁が滅んだことを聞いて自殺した。同月二十一日、自殺したことを罪科とし、大庭御厨の遺領が没収された。但し、祭主から異論が出て、義典の遺領のうち外戚の家が伝領していた御厨については神宮に返付された。義典は建保六年(西暦1218年)十二月五日にも公暁の命で伊勢神宮に奉幣するため出発している。以上が実朝暗殺犯についての吾妻鏡の記述である。しかし、以上の記述から不審な点が幾つか指摘できよう。一つ目は公暁が肌身離さず持っていたはずの実朝の首は所在が分からなくなっていること。従って、実朝の埋葬にはたまたま実朝が事件当日ある人物に与えた髪の毛を首の代わりとした。二つ目は公暁の首実検をしているが、公暁の首だと証言した記述がないことである。むしろ泰時が公暁の首を見て、「よくよく公暁の顔を見たわけでないが、どうも公暁ではないのではないか」ととれる言い方をしている。
この事件は公暁の単独犯行説、黒幕説、更に実行犯は別人で意外な人物が主犯であるとの説がある。吾妻鏡は公暁の単独犯行であるごとく記述している。黒幕説では黒幕は義時、三浦義村、義時―義村共謀説、後鳥羽上皇を上げている。まず、実行犯が公暁で黒幕が義時だとする説では、その動機として、義時自身東国分国論者であって、将軍の権力を弱める行動を取ってきているので、実朝が官位、官職を上げることに反対であり、官位・官職上昇の見返りに、例えば、守護・地頭制度を漸次停止するとの約束をしているらしいことをつかんでいたようであるから、到底許せるわけがなかった、というものである。更には、実朝擁立・北条氏打倒の陰謀の懸念は常時つきまとう。義時黒幕説の難点は本来なら義時が御剣役なので自分自身を殺害させることになる本テロ行為はあり得ないという点であるという。しかし、義時が御剣役を譲った相手が源仲章朝臣で実朝のお気に入りの人物である。何かにつけて幕政に口を出すので義時にすれば鬱陶しい存在であった。従って、実朝と一緒に葬ってしまおうと考え公暁にも指示し、自分は心神が急に乱れたという芝居をうったとすれば辻褄が合うのではないか。それよりも政子が進めている後鳥羽上皇の親王鎌倉下向の話との整合が取れない。実朝暗殺によって朝廷から足元を見られてしまうのは必定であったし、そのような命の保証がないようなところに親王をいわば人質に出すわけがないのである。 ―黒子―

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−51)
源実朝の暗殺事件は謎が多く真相がはっきりしていない。実朝に子が無く次の将軍の手配が政子によってはじめられていたが、その準備が整う前に起こってしまった。京では鎌倉幕府が動揺をきたし、その影響で不穏な動きが生じるのではないかとの憶測がささやかれていた。幕府はしばらくして伊賀太郎左衛門尉光季を京都警護のため上洛させた。鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」により、事件の概略を確認しておこう。承久元年(西暦1219年)一月二十七日、右大臣就任拝賀のため実朝が鶴岡八幡宮に参拝した。昨夜からの雪が二尺余りも積もっていた。従った者には殿上人、公卿、武士等に道中の随兵は千騎であった。北条氏からは御剣役の義時のほか時房、泰時、三浦氏からは小太郎時村(義村の長男)が従った。八幡宮の楼門に実朝が入った時、義時が急に心神が乱れ、御剣役を源仲章朝臣に譲って退出し、鶴岡の神宮寺で正気に戻ってから、小町の義時邸に戻った。夜になって神拝の儀式が終わり、実朝が退出した時、鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の近くにすきを見て近寄り、躍り出て実朝を斬殺し、首を上げた。随兵等がかけつけた時は既に公暁の姿はなかった。ある人が、「別当の阿闍梨公暁が父(源頼家)の敵を討ったと名乗りを上げた。」と言った。そこで、随兵の長尾新六定景親子が公暁の本坊を急襲して門弟らと合戦になったが、公暁の姿はなかった。そのころ公暁は実朝の首を持って、公暁の後見宅に向かい、食事中も首を片時も離さなかったという。使者(公暁の乳母子)を義村邸に遣わし、「今、将軍はいなくなった。私こそ関東の長にふさわしい。速やかに計らうように。」と相談した。義村の子息若駒丸が門弟になっているので、その縁を頼ったのであろう。義村は実朝の悲報に涙にくれたが、「まずは、拙宅にお越しください。ひとまずお迎えの兵を出しましょう。」と申した。使者が去ってから、義村は別の使者を遣わして義時にその趣旨を知らせた。義時は、ためらうことなく公暁を誅殺せよ、と命じたので義村は一族を集めて相談した。公暁は武勇に優れているので簡単に討つことは出来ぬとの意見が出たが、義村は討手として長尾新六定景を指名した。定景は雑賀(さいが)次郎(西国の住人で強力の者)等を従え公暁の後見宅に向かった。そのころ公暁は使者の帰りが遅いので、鶴岡の後方の峰を登り義村宅に向かっていた。従って、両者は途中で遭遇し、雑賀次郎がすぐに公暁をだきかかえ、定景が太刀を取って公暁の首を取った。公暁は僧服に腹巻(鎧)をまとっていた。定影が首を持ちかえると、すぐに義村は義時の邸宅に持参した。義時は居間でその首をみた。泰時は「公暁の顔をはっきりと見たことが無いので、疑いが残る。」といった。事件の前、不吉な出来事が数々あったと記述しているが、ここでは省略する。政子は今夜中に公暁の一味を糾弾せよと命じた。
               ―黒子―

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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