ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

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3.(1)土地所有の歴史(その8−54)
本稿は実朝の暗殺者が波多野忠綱であったとする説の続きである。玉縄地区植木に龍宝寺という寺がある。寺の辺りを七騎谷という。鎌倉時代にはこの寺はなかったが、実朝の位牌がある。法名「大慈寺殿正二位丞相公神儀」とある。忠綱の放った刺客団が追手から隠れるために七騎谷に潜んだという。刺客団は実朝の御首を携えて忠綱に使命成就を報告した。御首は後に金剛寺(神奈川県秦野市)となる地に塚を建てねんごろに葬られた。
この説では実行犯が公暁ではないのだが、そうなると公暁はどうなったのか。ひとつには捕えられて斬殺されてしまったと考えられる一方、夜陰に乗じて逃げてしまったとも考えられる。そのことと関係があるのか「吾妻鏡」の嘉禄二年(西暦1226年)五月四日条に公暁と称する悪僧(名は忍寂房)を頭に五十人ほどが謀反を起こそうとしていたことが書かれている。場所は白河の関とある。これらの謀反団にたまたま道中で結城七郎朝広と甲斐源氏の浅利太郎知義が遭遇し、少々合戦をして首謀者を誅殺し、その首と十二人を生け捕って鎌倉に連行したことが書かれている。事件が発生したのは同年四月二十七日のことであったが、この噂が鎌倉に伝わったのであろう、甲冑を着て御所に御家人らが集まる騒ぎがあった。忍寂坊が公暁であるとの決め手はないが少なくとも公暁生存説は当時根強く残っていたことを窺わせる。
 実朝の暗殺事件で頼朝の子孫は絶える定めが確定した。頼朝の存在感が大きかっただけに北条氏として常に「頼朝の復活」を警戒しなければならなかったが、これで幕府内での北条氏の権力が一段と向上安定したことになる。そこで義時はいままで温めてきた東国独立構想を実現すべき時が来たと思ったに違いない。かねてから朝廷に要請していた後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に下向してもらう約束を実現してもらうため承久元年(西暦1219年)二月十三日政子の使者として二階堂行光が上洛した。閏二月十二日二階堂行光の使者が鎌倉に戻り、この件に関する朝廷の返事がもたらされた。即ち、「皇子(雅成親王か頼仁親王のどちらか)の下向は必ずするが、今すぐというわけにはいかない。」とのこと。鎌倉側からはすぐにも実現されるよう「機を見て上皇に奏聞せよ」と行光に命じた。同年三月八日、上皇の使者として藤原忠綱朝臣が鎌倉に到着し、翌日政子の邸宅を訪問して上皇のお言葉として故実朝のお悔やみを奏上した。そののち義時に会って、摂津国の長江、倉橋二荘の地頭停止に関する院宣を告げた。親王下向の返事はなく、逆に二荘の地頭停止を迫られたのである。同月十二日、義時、時房、泰時、広元が政子の邸宅に集まって忠綱朝臣を通じて上皇から命じられた条々につき審議した。同月十五日、政子の使者として時房が千騎をひきつれて、早期の親王下向の要望と二荘の地頭停止は出来ない旨の返事を携えて上洛した。千騎を引き連れたのは朝廷に圧力をかける意図からである。同月二十八日二階堂行光がその任を時房に引き継いで鎌倉に戻った。「吾妻鏡」は四月、五月、六月の記事が欠落している。他の資料によりこの間の出来事が伝えられているが、時房がもたらした親王下向は拒絶され、摂津国二荘の地頭停止拒否には上皇のお怒りがはげしかったようである。            ―黒子―

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3.(1)土地所有の歴史(その8−53)
 本稿も実朝暗殺の下手人探しの続きである。義時黒幕説の次は最近支持者が増えているという三浦義村黒幕説である。義村の妻は公暁の乳母なので三浦氏にとっては公暁と近い関係にある。そこで実朝と義時を同時に抹殺し、北条氏に代わって公暁を将軍にたて義村が執権につく、という筋書きである。しかし、義時を討ち漏らして陰謀は失敗したので口封じのため公暁を殺したのであるとする。しかし、この説の難点は、実朝と北条義時を殺害して幕府を乗っ取るには高いハードルが存在することである。北条方は義時の弟時房や長男の泰時がかまえているし、北条氏の危機になると活躍する政子も控えている。それに実朝や義時を殺害すれば謀反人であるから直ちに警備のために控えていた随兵千騎が打って出るはずである。
さて、義時―義村共謀説はどうか。この場合もちかけたのは義時であろう。義時にとっては義村の野望を未然に防げるし、同時に常時懸念される実朝擁立・北条氏打倒の陰謀を粉砕できる。しかし、義時黒幕説で述べたごとく、朝廷は幕府の足元をみるであろうし、第一いつなんどき権力闘争に巻き込まれるかもしれないそんな危険なところへ親王を下向させるであろうか。
後鳥羽上皇黒幕説には難点が少ないように見える。幕府がこのまま存続し続ければ、朝廷の権力基盤である土地を地頭等に浸食され、幕府に朝廷が支配されるようになることまで懸念される。倒幕とまではいかないまでも実朝・義時同時暗殺が出来ればかなり幕府にダメージを与えられる。勿論上皇が直接公暁に指示したわけではなくしかるべき人物を介在させている。公暁には犯行後義村を頼れと指示しておく。頼られた義村は好機到来とばかり討幕をするかもしれないし、北条方に通報すれば公暁を誅殺することになる。難点は公暁が生け捕りになり朝廷側の陰謀が露見することである。
以上は公暁が主犯か公暁を陰で操った人物がいてそれが誰であったかを数例見てきた。勿論これ以外のケースもありうるであろう。次は実行犯が公暁ではなく、別人であったとする説の例をあげる。
ことの発端は和田合戦に遡る。和田勢が将軍の御所を攻めた時、御所に一番に駆けつけたのが波多野忠綱であった。三浦義村も急ぎ駆けつけたのだが、戦功を審議する席で一番乗りをめぐって忠綱と義村が相論となり、忠綱が義村を盲目呼ばわりしたため悪口をとがめられて、忠綱には恩賞が与えられなかった。忠綱は秀郷流の流れをくむ名門の誇りを汚されたとの思いから、義村を深く恨むと同時に、この裁定を下した実朝と義時をも憎んだのである。鎌倉八幡宮での実朝拝賀の式はこれら三人に恨みを晴らす機会となった。実朝と義時を暗殺し実行犯に義村が乳母夫になっている「公暁」を名乗らせることによって義村の陰謀と見せかけ幕府軍が義村を誅殺するはずだとふんだ。暗殺の実行犯は忠綱の手のものである。実朝の御首を取ったのは公暁の犯行である事を確定させるためである。
                 ―黒子―

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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