ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−56)
義時は後鳥羽上皇から名指しで追討命令を受けたが、逆に上皇軍を撃破したことで、事実上日本国の最高実力者になった。承久の乱で勝利したことで鎌倉方は多くの所領を手に入れ御家人達はその恩賞にあずかったが義時自身は一寸の土地もわがものとはしなかった。義時にもこのような一面があるのだと感銘を受ける。ところで義時は泰時と時房を後にいう六波羅探題につけた。その重要性から考えて義時の後任はその立場や過去の実績から泰時であると宣言したに等しい。しかし、義時自身自らの後任を明言しないまま元仁元年((西暦1224年)六月十三日亡くなった。官位は従四位下右京権大夫、享年六十二歳。最高実力者の割に官位が低いのが不思議である。
伊賀氏の変は執権家伊賀氏と将軍家政子の後家同士の争いであったが、本来北条氏の家督問題は伊賀氏が中心になって決めることであり、政子は頼朝と結婚したので北条氏を離れたのであるから、北条氏の家督問題に介入するのは不当であるという説がある。しかし、義時の後継者が即鎌倉幕府の実質最高指導者であり日本国の最高実力者であるから、ある程度御家人等幕府の重鎮の総意に基づいて決定されるべきだと考える。義時の子息でこの任に耐えられる人物がいない場合は義時の弟時房もその候補に上げてもよいのである。しかし、幸い長男の泰時は庶子ではあるが侍所別当であり、和田合戦や承久の乱で出陣し、特に承久の乱では東海道軍の大将を務めているし、なによりも承久の乱後都に残って六波羅探題を務めている。泰時の弟で正室の子は朝時、重時(母は姫の前)、政村、実義(母は伊賀氏)等がいるが、重時、政村などは承久の乱で従軍していない。武士たる者は合戦に臨んでこそ武士であり重時や政村は御家人の信任を得られないであろう。武士でありながら日本国の頂点に立った者は平和時を除き例外なく合戦に参戦し、その中から頂点を勝ち取っている。平清盛、木曽義仲、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康しかりである。執権が決まっていないこの段階での鎌倉幕府のNO.1である尼将軍政子の意向は重いものがある。執権職が北条氏の家職であると御家人達が心の底から納得していたかどうか疑わしいこの時期、幕府の指導者の人選は極めて政治的であったはずで、政子がこの問題を主導したのは不当ではない。事実幕府が危機に陥った時、即ち牧氏の変、承久の乱に際して政子が果たした役割は極めて大きい。それに政子が一貫してとってきた行動は北条氏の繁栄のためであるということと重なる。そのためにはたとえ実の息子でも犠牲にする冷徹さを秘めている。比企氏、牧氏、そして今回の伊賀氏の存在はこれを危うくするとして排除しようと動いたのである。本人は北条家から抜けたとは思っていない。政子は平政子であっても、源政子ではない。政子はすかさず泰時、時房を後にいう執権・連署に任命して、伊賀方になびくかもしれぬ三浦義村を急遽説得し、さらに、宿老を集めて「(謀反のため)蜂起する者などいないはずだ」と説得し、これに反対する者はいなかったことからすれば、泰時執権就任は公認されたことになる。そして、後に尊重の自白から義時の毒殺が明るみに出て政子の取った行動は結果的に正しかったのである。
                    ―黒子―  

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3.(1)土地所有の歴史(その8−55)
どうやら上皇は幕府の求める親王下向の意図は鎌倉方が東国独立の礎を築くためのものである事を看破したようである。「愚管抄」では上皇はこう述べたと伝える。「『イカニ将来ニコノ日本国二ニ分ル事ヲバシヲカンゾ、コハイカニ、』ト有マジキコトニヲボシメシテ、『エアラジ』トヲホセラレニケリ」。
親王下向がかなわぬと悟った鎌倉方は頼朝とも血縁がある西園寺公経の孫で九条道家の三男三寅を下向させることを決めた。「吾妻鏡」承久元年(西暦1219年)七月十九日条に三寅が鎌倉に到着したとあり、三寅は幼いので政子が理非を簾中で裁断することを記している。所謂尼将軍の始まりである。
「吾妻鏡」承久三年(西暦1221年)四月二十九日条に順徳天皇が突然四歳の仲恭天皇に譲位した。これは義時討伐に順徳天皇が本格的に取り組むための措置であった。同じく同年五月十九日条、午の刻(正午)に去る十五日に京をたった京都守護伊賀光季の使者が鎌倉に到着、後鳥羽院御所に官軍が召し集められ、大江親広入道も上皇からの召喚に応じ、自分(光季)は支障があると申したので、勅勘を受けそうである旨の急報をもたらした。羊の刻(午後二時)には公経の家司の使者が同じく京を十五日にたち鎌倉に到着、十四日公経と藤原実氏が弓場殿(射芸を行う場所)に後鳥羽上皇の命で尊重によって押し込められたこと、十五日午の刻には官軍が伊賀季光を誅殺したことを知らせた。しかも義時追討の宣旨が五畿七道に下されたことも告げた。この使者の話であろうが、関東分の宣旨の御使者も今日、鎌倉に到着したという。そこで捜索したところ、押松丸なる人物が捕えられ、所持していた物を調べると、宣旨と源光行の副状並びに関東武士の名簿を所持していた。光行は平家方であった父の助命嘆願のために鎌倉に下向して、幕府に仕え、政所別当まで務めた人物である。これには幕府も衝撃を受けたことであろう。承久の乱の経過については記述済みなので省略するが、伊賀の方の陰謀に関係のありそうな人物で承久の乱の際幕府軍に参陣していないものが二人いるのが気がかりである。義時は指名手配を受けている身だし司令官なので除くとして、一人は北条重時であり、もう一人は北条政村である。この二人の弟である北条実泰が参陣しているので年齢がネックではない。武士である以上嫡男であろうと戦に於いて武功をたてるのが使命だが、なにか訳があったのであろうか。伊賀の方にとっての第一子である政村に万一のことがあっては困るのと義時の嫡男を意識したことだったのか。
承久の乱に勝利したものの東国独立の条件である親王東下は実施していない。朝廷内では三寅東下に力を貸した西園寺公経が権力者として台頭し三寅のためにならない親王東下には反対だったのではないか。それと承久の乱で手にした所領が西国に偏っていたことも見逃せない。今迄は東国に偏っていた所領が西国にも拡大された。とりあえずこの所領に御家人を送り込むことが先決でその結果を見ることになったのではないだろうか。
                   ―黒子―  

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