ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−58)
 北条氏が鎌倉幕府の中で有力氏族になるには幕府が朝廷の一機関の位置づけでは果たせない。やはり、東国独立を実現してこそ、その可能性が出てくるのである。そのために、『幕府は朝廷の一機関である』と唱える御家人を徹底的に排除してきた。たとえ頼朝一族であっても例外ではなかった。こうして築き上げてきたポテンシャルが承久の乱を引き起こし、その勝利によって義時自身を幕府という枠を超えて日本国に絶大な影響力を発揮できる地位に押し上げたのである。ここまでくれば東国独立をしなくとも北条氏の権威はいやがうえでも高まった。義時の後継者はこれを引き継ぐことになる。
義時の後を継いだ泰時は対外的には、はじめからいわば過半数野党の党首のような存在であった。しかし、北条氏の中では必ずしも権力者ではなかった。生母がはっきりしてないことやましてその出自となると不明であることが背景にあった。通常兄弟間で同一の父であっても長幼に関係なく母の出身氏族の支援が地位を大きく左右した。義時の正室は比企氏出身の姫の前と伊賀氏出身の伊賀の方で前者には朝時、重時、後者には政村と実泰という息子がいる。これらの者たちに比べて泰時の地位は低いのである。このことを窺わせる出来事として、泰時が決めた義時の遺産相続人への遺領配分(財産分与)に端的に表れている。この遺領配分をいぶかって政子が嫡男の分が少ないがどうしたことかと泰時に尋ねると、泰時は執権就任を承った身としては遺領配分について兄弟たちと争わず、多くを弟たちに分け与えますと言ったという。政子はこの言葉を聞いて感激したのであった。
元仁元年(西暦1224年)八月一日、泰時、時房が執権、連署に任じられてから初めて時房が政所に出仕した。義時死去により喪に服していたが、泰時執権体制が動き出した。
元仁二年(西暦1225年)六月十日、正四位下朝臣大江広元死去。七十八歳。
同年七月十一日、従二位平政子薨去。六十九歳。神功皇后の生まれ変わりと言われた。
泰時が執権についてから彼の支えになっていた二人に一年ほどで死なれ、動揺したに違いない。政子が幼い三寅に代わって尼将軍についていたので、幕府としては形式的に機能していたが、政子の死によって幕府の欠陥がさらけ出され、しかも泰時にとって三寅とのかかわりが薄く、放置すれば別の者が三寅を擁立しないとも限らないそんな危うい状況にあった。さしあたって泰時にとっての喫緊の課題は、どのようにしてこの状況を解決するかにあった。実は時房がすでに連署に任命されたとしているが、この状況下で泰時が時房の助けを求めたとの説が有力である。
               ―黒子―

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−57)
 北条時政、義時親子は鎌倉幕府が朝廷の一機関であるとし、将軍の権力を上げようとする御家人を次々に滅ぼし、承久の乱のときには三浦氏等注意を要する御家人の数は二、三ぐらいに減っていた。承久の乱が起こったとき京都守護であった伊賀光季が真っ先に義時討伐の綸旨が出たことを知らせてきたおかげで三浦氏の動きに備える時間があった。三浦義村は上皇方についた弟の胤義から義時討伐の誘いを受けたが、義時に先を越されたことを悟り、弟の申し出をけって義時に味方をする申し出をしている。伊賀光季からの知らせが二、三刻遅れていたら義時が義村に討たれていた可能性は十分にあった。義時は伊賀光季のおかげで命拾いをしたのである。光季は上皇軍に攻められて自害して果てたが義時はその恩をどの程度に感じていたのか。後に義時が自分の妻光季の妹伊賀氏に毒殺されたことがなにか関係しているのであろうか。話が横道にそれたが日本の歴史がほんの数時間の違いで変わっていた可能性があるのである。京方と目される御家人が数を大きく減らしていたおかげで大江広元の京都に攻めのぼる強硬策が採用実行に移された。とはいえ天皇に刃を向けることは恐れ多いことであった。「増鏡」によれば、「もし、上皇が陣頭に立っていたら如何すべきか」と泰時が義時に問うと、「武器を捨てて降伏せよ」と義時が答えたという。また、「吾妻鏡」でも幕府軍が進軍しているさなか、義時邸に落雷があって、下人一人が死亡したことを義時は朝廷に逆らう行動に対する警告ではないかと大江広元に相談している。広元は「落雷は幕府にとって吉である。奥州征伐の際も陣営に落雷がありました」と慰めている。また、政子は例の演説で「逆臣の讒言によって道理に背いた綸旨が発せられた。その逆臣たる藤原秀康や三浦胤義を討て」といい、上皇に刃向かうことを巧みに避けている。そして結果は見てきたとおりである。
幕府が上皇軍を破ったものの、西国で大きな勢力をもっている権門寺社勢力が承久の乱で上皇方に加担したわけではなく、上皇の独り相撲だったのが実態であったから、ただちに鎌倉幕府がこれらの勢力を従わせる大義名分はなかったのであり、天皇家に代わって幕府が日本国の頂点に立てる状況ではなかったというのが実態であったろう。かつて白河法皇が「天下三不如意」に悩まされた。賀茂の水、さいの目、叡山の山法師であるが、特に西国の寺社勢力はそれほどに厄介な存在なのである。
鎌倉幕府としては、天皇家を存続させ、天皇、上皇人事を管理しながら朝廷から征夷大将軍の宣下を受ける従来の道を選択した。経験の乏しい西国統治のノウハウは承久の乱で得た西国の所領に御家人を在地させることで蓄積することにした。モンゴル襲来ではこの西国の御家人たちの活躍のおかげで勝利する事が出来たことから考えると、承久の乱を勝利に導いた武士たちの活躍はもとより政子や大江広元の功績をもっともっと評価しても良いのではないかと思う。
―黒子―

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