ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−60)
頼朝の死後、頼家が将軍職を継承するが、早々に頼家の親裁が停止され、幕府の有力御家人による集団指導体制に移行した。しかし、頼家を将軍職から引きずり下ろすと、北条時政は集団指導体制を反古にして独裁政治を始めた。時政の失脚後、北条義時もこの点では同様の行動をとっている。しかし、義時のあとを継いだ泰時は再び集団指導体制(評定衆)をとった。泰時の立場が必ずしも盤石ではなかったことに起因しているのであろう。もともとこの手の仕組みは一般的で朝廷でも行われていることである。評定衆の構成は執権・連署に御家人の宿老と政所・問注所執事等が選ばれた。執権・連署以外の初代評定衆に名を連ねた者は、中原師員:文官、三浦義村:武将御家人、二階堂行村:政所執事、中條家長:武官御家人、町野康俊:問注所執事、二階堂行盛:政所執事、後藤基綱:武将、文武両道、承久の乱では軍奉行、三善康連:御家人、文官、法曹官僚、佐藤業時:文官、斎藤長定:文官、三善倫重:文官、幕府初期官僚となっている。嘉禄元年(西暦1225年)十二月二十一日評定衆による初の評議始めが行われた。幕府の重要政策や所領などに関する裁判を行う場である。
               ―黒子―

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−59)
泰時は、治承四年(西暦1180年)十二月十二日、鎌倉に凱旋した頼朝の居館が竣工して以来四十五年間使われてきた御所に代わって新御所を建設する計画を嘉禄元年(西暦1225年)十月に発表した。建設場所についていろいろ審議をしているが最終的には泰時邸に隣接する位置になった。これは当初からの狙いで、このようになるよう誘導したのではないか。泰時としては自然に三寅を囲い込むことができるからだ。同年十二月新御所が落成し、同二十日に三寅が新御所に御移徒(ごいし、転居のこと)して泰時の思惑通り三寅の身柄を確保(泰時が寝殿の階の間に入るよう御簾を上げた)できた。同二十九日、泰時の理髪、加冠によって三寅の元服が行われた。諱(実名)は頼経。これではまるで頼朝と義経の合体ではないかと目を疑うほどだが、全国区(東国独立国ではない)のリーダーに躍り出た北条氏としてはもはや朝廷志向派に対する警戒感が薄れたのか、行き過ぎに対する修正行動なのか、このあと頼家の娘を頼経に嫁がせてもいる。全国区になったのだからノーサイドにしようよと言わんばかりである。
嘉禄二年(西暦1226年)一月二十七日頼経の将軍宣下があった。
                  ―黒子―

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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