ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−64)
 吾妻鏡の貞永元年(西暦1232年)七月十二日条に、勧進聖往阿弥が物資輸送船着岸のための和賀江島の造成を申請した時、泰時は喜びすぐに許可したばかりでなく、援助をしている。同八月九日条に早くも和賀江島が完成し、泰時は尾藤景綱、平盛綱、諏訪盛重を使わして巡検させていることが記されている。
同じく物流の改善に寄与した六浦道の建設がある。吾妻鏡の仁治元年(西暦1240年)十一月三十日条に鎌倉―六浦津間に道路建設を決定し、仁治二年(西暦1241年)四月五日条に泰時が着工の催促をしている(決定は冬だったが、大犯土のため春まで待たねばならなかった)。しかし、工事が遅れがちだったため、同年五月十四日条に、泰時自ら自分の馬で土石を運び工事の遅滞を知らしめたので皆も仕事に励んだという。六浦道は途中山間部を通るため、所謂朝比奈切通しを開削している。
泰時は新田開発にも意欲を示した。吾妻鏡の寛喜二年(西暦1230年)正月大二十六日条によると、泰時の公文所で、武蔵国太田荘内の荒地を新たに開発することについて審議が行われた。尾藤左近入道道然(景綱)が奉行したという。結果については不明。
同じく延応元年(西暦1239年)二月十四日条に武蔵の国小机郷に鳥山などの荒野で水田を開発するように、佐々木康綱に命じた。
同じく仁治二年(西暦1241年)十月二十二日条に、武蔵国に荘園を開発するための審議を行っている。「東京都の歴史(山川出版社)」によると多摩川の流れを堰上げ武蔵野に水路を掘り通す大規模な計画であったらしい。但し、場所や成果は不明とのこと。
                 ―黒子―

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−63)
 佐藤進一著「日本の中世国家」(岩波書店)によれば、御成敗式目の制定当時は現在伝わる御成敗式目中の三十五条までで、その後に追加された条項を編集して全体では当初の五十一条に合わせてあるという。
前稿で守護の役割を大犯三カ条に限定した書き方になっていたが、夜討、強盗、山賊、海賊の取り締まりも含まれることが、「吾妻鏡」の貞永元年(西暦1232年)八月十三日条に記されているので追加する。また、惣地頭が領家の証明書を持っている名主の土地を奪うことが出来ないとする条項は三十八条なので当初はなかった可能性が高い。一方、第三十二条には地頭が補任している領内に犯罪人(盗賊や悪党)を匿ってはならないし、匿うと同罪とする。守護所の役人が入れないところ(地頭も当然入れない)に賊徒がいるとわかったら、家来を派遣して逮捕しなければならないとしている。
当時は所領争いが多かったので、これを成敗する条項が大変多い。
泰時が執権に就いたのは実力行使によるわけでなく御家人からも北条一族からも「なぜ?」という気持ちがあるだろうことを認識していたから、十三人の評定衆の合議で幕政を動かす方式にしたし、京都の公卿に対しては「御成敗式目」を制定して幕府のテリトリーを明確にして棲み分けを図った。また合議の最小単位である二人制、たとえば執権、連署や、六波羅探題北方、南方等、を採用している。このことによって彼の生存中は安定した政治状況が続いた。治的には安定していた。但し、ピンチがなかったわけではない。天候不順による凶作で寛喜二年(西暦1230年)から始まる寛喜の大飢饉に遭遇している。幕府は伊豆、駿河両国の出挙米を飢民の救済にあてたり、個人的に泰時自身も施しを行っているが、餓死者があとを絶たなかった。幕府はやむなく禁止されてきた人身売買を認めることまでしている。
                 ―黒子―

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