ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−66)
 吉川弘文館の「吾妻鏡」現代語訳10の解説文によれば、薪荘と大住荘の争いで、どうやら春日神木の強訴があったようで、薪荘の秋光預所が六波羅に捉えられ、春日神木は帰座して治まったようである。春日神木を押し立てての強訴は春日大社、興福寺の意向に沿わない朝廷内で中心的な存在である藤氏(春日大社および興福寺は藤原氏の氏社、氏寺である)の者を放氏(藤原氏から勘当される)するぞと強訴するもので、実際に行われた歴史がある。前稿で述べたごとく、幕府は石清水八幡宮のやり方に不満があったので薪荘の秋光預所がその責任を取らされて六波羅に拘束されたのであろう。
しかし、この事件はまだ続くのである。同じく嘉禎元年十二月二十九日条に、酉の刻に六波羅の飛脚が鎌倉に到着して申した。「去る二十四日の辰の一点に、南都の衆徒が春日社の神木を捧げて木津河あたりに向け出発したので、在京の武士らが勅命により防ぎ止めるために皆で急行しました。これは石清水八幡宮の神人と春日社の神人とが争った時、春日社の神人が多数負傷したので、訴え申すためです。執柄家(藤原道家)や藤原氏の公卿は皆、門を閉ざしました」。すぐに泰時が御所に参られ、評定衆も参上した。丑の刻になるまで条々の審議を行われた。この事は朝廷の重大事であり、御使者を京都に進めて処置すると決定した後、飛脚は京に帰った。とある。
御使者は次条で大夫判官後藤基綱とわかるが、後に佐渡守とあるので、事件の収束に貢献したことで昇進したのではないだろうか。さっそくその活躍を見てみよう。同じく嘉禎二年二月二十八日条に、今日、六波羅の飛脚と大夫判官後藤基綱の使者が鎌倉に到着して申した。「去る十四日、基綱は木津河の北に向かい、使者を河の南{(春日社の)神木が鎮座している場所}に遣わしたところ、衆徒が皆やって来たので、御裁定の内容を詳しく問答しました。衆徒は全て承服し、そこで同二十一日に神木を本社へ返し奉りました。翌日の二十二日、殿下(藤原道家)の御邸宅で元三(原文「宛三」を改めた。昨年末以来の春日神木の動座により、道家は正月の祝いである元三の儀式を中止していた<「明月記」嘉禎元年十二月三十日条>儀式が行われ、同じく(道家は)威儀を整えて参内されました」。
御裁定の内容は定かでないが、興福寺、春日大社側に有利なものと思われ、衆徒は納得し、神木を帰座させたのであろう。しかし、嘉禎二年三月二十一日条に、南都の事について、寺社が門戸を開き、春日社の神木が帰座したのは使節の功績であると、特にその審議が行われた。お褒めの御文書を後藤大夫判官基綱(現在、在京)のもとに遣わされたという。また南都の僧侶に武蔵得業隆円という者がおり、志を武家に寄せ申していた。そこで六波羅の駿河守(北条重時)と使節の基綱が内々に隆円と相談されたので、隆円は衆徒に対し関東の威勢を示し、密かにまた諫言した。これによって蜂起は忽ち鎮まった。基綱がその事情を注進したので、今日、同じくお褒めの言葉を遣わされた。「およそ世のため寺のため、関東の御ために第一の奉公であり、たいそう感心である。」という。
懐柔工作があったことを明らかにしている。
                    ―黒子―
 

 

 

3.(1)土地所有の歴史(その8−65)
 嘉禎四年(西暦1238年)二月、将軍頼経は泰時、時房他大勢の御家人を引き連れて京に上った。二歳で鎌倉に下向してから約二十年の歳月が流れていた。頼経は六波羅御所に滞在したが、前々から課題であった京の治安対策の必要性が高まった。とりわけ夜間の警護が重要であった。そこでとられた対策が篝屋の設置であった。夜間京の要所々々に番所を置き篝火を焚いて御家人に警護をさせたのである。いまでいえば交番のようなものであろうか。この制度は効果があったらしく、後に鎌倉でも同じことが行われた。
 興福寺の荘園大住荘と石清水八幡宮の荘園薪荘が境界争いを起こした。吉川弘文館、現代語訳吾妻鏡の嘉禎元年(西暦1235年)五月二十三日条に、「石清水八幡宮寺と興福寺との確執があり喧嘩などに及んだので、計らって処置するよう院宣が下されたと、六波羅から急報された。これは、薪・大住両庄の用水相論のためという。そこで審議が行われ、御使者を派遣して調査を行い、その結果に基づいて議定が行われるよう、今日、仰せ遣わされた。」とある。幕府としては本所同士の争いには関与しないというのが、御成敗式目の前提だから、そのように返事をしてもよかったかもしれない。しかし、治安に問題が生じるのは幕府の怠慢になるので、取り敢えず実態を調べてみようとしたのか。さらに、幕府からすれば寺社への影響力を拡大するチャンスと考えたかもしれない。承久の乱では寺社は目立った動きをしていなかったため、たいした仕置きをしていないからである。
ところがである。同じく吉川弘文館、現代語訳吾妻鏡の同年七月二十四日条に、「また石清水八幡宮の神輿の事について審議が行われた。これは八幡宮寺と興福寺の争いで、御使者を遣わすと去る五月に双方に仰せられた。しかしその処置を待たず、同六月四日に南都の衆徒が薪荘に押し寄せ、在家六十余軒を焼き払った。宮寺が勅栽を仰いだところ、同十九日に急に神輿を宿院(院などが参詣の折に宿とする所。石清水八幡宮本殿のある男山の麓に所在。)に渡し奉ったので、事情を尋問するために小槻季継宿禰を差し遣わされたが、問答に応じなかった。そればかりか神人らが史生(太政官弁官局の下級職員)中原為末に暴行を働いた。その後に解条(上申文書)を捧げて条々の勅許を頂いたという。そこで宮寺の強訴はなにかとよろしくないと、今日、審議が行われ、別当成清法印に仰せ遣わされた。『因幡国を寄進されたため、神輿の入洛を留め奉った。無道な濫訴によって不相応な朝恩に預かるのでは、諸山諸寺の乱暴は断絶することはなく、世のため人のため、最初から最後まで不快なことである。関東からどうして計らい申し上げないでおられようか。今後もし軽々しく神輿を動かし奉れば、別当職を解任されるよう奏聞するであろう。他のところの衆徒は、貫首(本山や諸大寺の管長の呼称)の命令に背いて、ややもすれば蜂起を起こす。当宮の神人に至っては、別当の許しがなければ、どうして理のない乱暴を行うであろうか。かねて存知するように』」。とある。幕府の対応が若干遅れたことによって、興福寺側の衆徒が石清水八幡宮の薪荘に押し寄せ、在家六十余軒もの家を焼き払らった為、石清水八幡側が朝廷に訴えを起こし、さらに神輿を宿院に差し向け、神輿の入洛をも辞さぬと圧力をかけたのであろう。朝廷は印旛国を石清水八幡宮に寄進して神輿の入洛を思いとどまらせたらしい。
                  ―黒子―
 

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