ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

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3.(1)土地所有の歴史(その8−68)
石清水八幡宮と興福寺の荘園の境界争いから騒乱に発展したが、幕府の武力によってこれを鎮圧した。実はもう一件、ほぼ同時期に寺社に関連したもめごとが発生している。それは比叡山と佐々木氏との衝突である。佐々木氏といえば頼朝が挙兵する際佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)の到着が遅れたことで頼朝は山木攻めを遅延せざるを得なくなったことを大変嘆いた話が有名である。佐々木氏は宇多源氏で保元、平治の乱でも義朝側について戦っている。この兄弟達は流人の頼朝を何くれとなく世話をしていることから頼朝の厚い信頼を得ていた。ところが本領が近江であるため、比叡山との確執・衝突が絶えず、承久の乱では、多くの佐々木氏が比叡山に影響力の強い朝廷側についている。敗北した定綱の嫡子、広綱は弟で幕府側についた義時の女婿、信綱に斬首され、以後信綱が嫡流になっている。
ではどのような騒乱があったのか、例によって吉川弘文館・現代語訳・吾妻鏡10を繙くと、嘉禎元年(西暦1235年)七月二十七日条に、今日、六波羅の飛脚が鎌倉に到着した。これは近江入道虚仮(佐々木信綱)の子息である次郎左衛門尉高信が日吉社の神人を殺害したため、山徒がこのところ不満を訴えていたが、聖断が遅いと称して去る二十三日に日吉三社の神輿を動かし奉った。勅旨を承ったため勇士等を近江河原口に遣わして神輿を留め奉ろうとしたので、武士と衆徒双方にけが人が多く出たという。その発端を調べると、近江国高島郡には散在する嘉輿丁神人(神輿などを担ぐ神人)が六十六人いた。そうしたところ山門(比叡山の異称)の計らいとして、その神人の内七人を改めて公役を勤仕している百姓をその替とした。このため地頭の虚仮は新儀は止めて元のようにされるよう、奉行の親厳律師(山門の僧侶で駕輿丁神人の事を奉行していた。)に掛け合った。その決着がつく前に(虚仮は)急用があって関東に参った。そこに高信が先に勢多橋の行事として行き向かい所役を催促した時、新神人はこれに対抗するため、あらかじめ宮司法師(神社に所属して、種々の雑用を務める下級の僧侶。日吉社は延暦寺の鎮守であり、神仏習合によって僧侶も神社に仕えていた。)を語らって住宅で高信の使者に殴りかかり、喧嘩となったという。
地頭にとって百姓の数が減るということは年貢などの減少に直結しているだけに、嘉輿丁神人にされては困るのである。
                 ―黒子―
 

 

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3.(1)土地所有の歴史(その8−67)
 解決済みかと思われたが、またもや興福寺側の衆徒が騒いでいるようである。例によって吉川弘文館の「吾妻鏡現代語訳10」を見ると、嘉禎二年(西暦1236年)七月二十四日条に、南都が騒然としているので、在京人や近国の者は、一族を動員して警護の忠節を尽くすよう、以前に命じられていた。一族が従わないと、このところ諸家から訴えがあるので、今後は大番以下のこのような役は、速やかに一門の家督に従うよう、今日、重ねて定められた。図書左衛門尉清原満定が奉行した。とある。さらに同じく、嘉禎二年(西暦1236年)八月二十日条に、南都の衆徒がまた蜂起したとの飛脚が鎌倉に到着したので、これを鎮めるため、佐渡守後藤基綱が上洛の使節を承った。そこで今日、門出した。明日の明け方に出発するという。とあり、その効果は嘉禎二年(西暦1236年)十月二日条に、六波羅の飛脚が鎌倉に到着して申した。「先月中旬頃から南都の衆徒が蜂起し、城郭を構えて合戦を企てている。六波羅が使者を遣わして宥めているが、ますます(勢いを)増している」。ということなので現地はお手上げ状態のようだ。そこで幕府は強権を発動する。嘉禎二年(西暦1236年)十月五日条に、南都の騒動を鎮めるために暫く大和国に守護人を置き、衆徒が知行する荘園を没収し、ことごとく地頭を補任した。また畿内近国の御家人らを動員して、南都への道路を塞ぎ、人々の出入りを止めるよう議定があり、印東八郎・佐原七郎(光兼)以下、特に武勇に優れた力のある人々を選んで派遣した。「衆徒がもしそれでも敵対するならば、決して赦すことなく全て討ち滅ぼすように。」という。またそれぞれ死を覚悟するよう、関東の武士には直接よくよく命じられ、京畿(の武士)については、その旨を六波羅に命じた。また南都の所領の所在について全てはわからなかったところ、武蔵得業隆窓が密かにその注文を佐渡守(後藤)基綱に与え、基綱が関東に送り進めたので、地頭が新たに補任されたという。そこで嘉禎二年(西暦1236年)十月六日条に早速、初めて、大和国に、大和国守護職などの御下文を六波羅に遣わす。とある。この作戦の効果を順に見ていくと、嘉禎二年(西暦1236年)十一月一日条、六波羅の飛脚が鎌倉に到着した。南都の衆徒は先月十七日に城郭を破却し、退散した。これは所領に地頭が補任され、関を塞がれたので、兵糧の手立てを失い、人数を集められないためという。嘉禎二年(西暦1236年)十一月十三日条、六波羅の飛脚が鎌倉に到着。南都の衆徒の蜂起はすでに収まり、去る二日から僧綱以下は寺に帰って、寺の門を開き、仏寺を行っているという。嘉禎二年(西暦1236年)十一月十四日条、南都のことについて審議が行われた。衆徒が静まったので、大和国の守護・地頭職を停止し、元の通り寺家につけられるという。嘉禎二年(西暦1236年)十二月二十九日条、佐渡守後藤基綱が京都から鎌倉に参り、南都が静まった事情を申し入れた。「このことについての内外の計略は、全て武蔵得業隆円の忠節によるものです。」と申した。その旨は、六波羅の駿河守北条重時の去る十一日の文書に記されているという。 幕府の武力の前では神輿とか神木を押し立てての強訴が通用しなかった。寺社の一角である南都を力ずくでも屈伏させた意義は大きかったし、幕府としての自信につながったはずである。     ―黒子― 
 

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