ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−70)
 佐々木氏と比叡山との争いで、比叡山側に死者が出たことで幕府は御家人側の佐々木高信等を流刑に処したうえで、比叡山側の首謀者の摘発を主張した。本稿はその続きになる。同じく嘉禎二年(西暦1236年)七月十七日条を見ると、佐々木近江二郎左衛門尉高信と日吉社の神人の争いによって神輿を担ぎ出した首謀者を召し出されるよう、武州(北条泰時)が頻りに申されていた。しかし山徒が拒否して蜂起したので、召されるべきではないとの事について、今日、重ねて御審議が行われ、座主宮(尊性法親王・・・後高倉院の皇子。貞永元年八月、天台座主に再任されていた。)に申されたという。「高信や神輿を防ぎ止めようとした勇士らは、衆徒の訴訟によって流刑に処されました。ここで追って首謀者を召されるのは、もっぱら後世を戒めるためです。そこで両門以下の交名を書き出したところ、俄かに無道の衆会(しゅうえ・・衆会)に及びました。(そこで)たとえ堂社に閉籠しても自業自得であるとの評議を行いました。情けがあれば、(山僧らに)諷諌を加えられますように。」と仰せ遣わされた。また「承久の乱で京方となった者は、諸社の別当・祠官に至るまで、相応の罪科をそれぞれ免れなかった。しかし、山僧の首謀者は、傍輩の罪科を超えたとしても、ついに赦した。寛大な処置を施したものである。今度の首謀者についてはまずもってその罪を逃れ難い。」と、御教書に記されたという。そしてその後の経過は、嘉禎二年(西暦1236年)九月九日条によれば、京都の使者が(鎌倉に)到着した。これは去年七月二十三日、日吉者の神輿が京に下った時に防ぎ留め奉ろうとした武士の右衛門尉(足立)遠政と、喧嘩の首謀者である近江次郎左衛門尉(佐々木)高信らについては、宣下の上で関東の御計らいとして、山門の不満をなだめるため流罪に処されていた。山徒の首謀者については、またその身柄を召しだして後世の戒めとされたいと奏聞されたので、(日吉)七社の神輿を造替えした後に、その首謀者を召された。すると、先月八日、新造の神輿を中堂に振り上げ奉り、訴え申したので、同二十八日に勅免の綸旨が下されたと報告されたという。
なんと、比叡山側の首謀者を拘束したが、これを不服として神輿を担ぎ出したので、朝廷が赦したというのである。ここから先はどのような経過をたどったのか不明だが、吉川弘文館、現代語訳「吾妻鏡」10の解説文によれば、幕府が比叡山側の張本召し出しで嘉禎三年(西暦1237年)六月末に衾宣旨の発給にこぎつけている。衾宣旨とは朝廷が五畿七道に、すなわち全国に指名手配をしたと思えばよい。天皇の御言葉によって首謀者が無罪放免になったが、幕府の強い働きかけによって、すなわち今風にいえば幕府が上告したため上皇が宣旨という形で最終判決を下したものであろう。幕府の寺社に対する影響力は格段に増したと考えるべきだと思う。
なお、興福寺の春日社に対して、比叡山は日吉社が神仏混淆の姿である。
                   ―黒子―
 
 
 

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−69)
 比叡山と佐々木氏の衝突事件の続きを記そう。本件は佐々木氏が地頭であるところから幕府がどのように計らったかをみてみると、同じく嘉禎元年(西暦1235年)七月二十九日条に、去る二十三日に比叡山の衆徒が三社(十禅師:比叡山の東麓の坂本に所在する日吉社の上七社の一つ。現、樹下神社。客人(まろうど):日吉社の上七社の一つ。現、白山姫神社。八王子:日吉社上七社の一つ。現、牛尾神社)の神輿を洛中に動かし奉った。これでは近江国高島郡田中郷の地頭佐々木次郎左衛門尉高信の代官と日吉社の社人らが喧嘩を起こしたためである。そうしたところ神輿が入洛する時、いつものように官軍が留めたので、宮人が疵を受け、死に至ったと訴えてきた。そのためその時に先陣していた者たちの中で右衛門尉足立遠政・兵衛尉足立遠信らを流刑と定められた上、高信を鎮西に配流するよう六波羅に仰せ遣わされた。神輿の入洛は先例があるとは言え、今度の経過はほとんど昔の狼藉を超えている。そこで首謀者を召し出され後人を誡められるため、さほどの重罪ではないといってもまず御家人らを山徒の不満の通りに相応の処罰を科されたという。そのことについて条々の審議があり、奏聞するために今日御教書を二条中納言定高卿に遣わされた。「田中郷の地頭である高信の代官と住民との喧嘩について、先日北条重時・北条時盛が事情を記してきたので、両方を召して対決を行い処置されると貫首に言上しました。まったくこれは高信を贔屓するものではありません。高信に罪科があれば、どうして処置を加えないことがありましょうか。しかし神人の訴訟が度重なっているところに、是非を糺明しなければ、傍輩が勝ちに乗じて、濫りな訴えが絶えることはないでしょう。そのためそのことを申しているだけです。次に衆徒については、一方では聖断を仰ぎ、一方では関東の計らいを待つべきところ、たちまち神輿を動かして天皇を驚かし申し上げたのは、理不尽な悪業であり、言語道断の次第です。首謀者については、早くその身柄を召し出されるように。」などの内容が記されていたという。と記されている。比叡山に対しては承久の乱では幕府は殆ど頼りにされなかった背景を踏まえ、影響力を育てるためそして「道理の押すところ」を貫く決意がにじんでいる。                                     
                   ―黒子―
 
 
 
 
 
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