ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

3.(1)土地所有の歴史(その8−72)
本稿では鎌倉時代が産み落とした地頭の生態を追ってみたいと思う。
地頭には鎌倉幕府が成立した時に頼朝が後白河法皇に認めさせた本舗地頭と、承久の乱後に朝廷に認めさせた新補地頭とがある。いずれの地頭も謀反人蹟の荘・郷(公領)に置かれた。本舗地頭については明確な権利が明文化されてはいないので確定的なことは言えないが、警察権、裁判権、年貢収集権であって、下地進止権(土地の面積を確定したり、百姓が逃亡したり絶えた場合に新たに百姓を配置すること)を実態として獲得して行くことであった。
それでは本稿から公領における地頭の行動を追ってゆきたいと思う。それには地頭が補任した当時の公領の実態を確認しておかねばならぬであろう。平安時代10世紀ごろになると律令国家開始とともに始まった班田制が農民の偽籍、浮浪、逃亡などによって行えなくなり、人を対象にした租税の集取をあきらめ田地の面積に基づく租税集取に切り替えられた。それには当時台頭してきた豊富の百姓(これを田堵といった)に一定面積の公領の耕作を請け負わせる所謂「名」制度の導入が始まったのである。人をとらえることが出来ぬなら土地を基準に租税を賦課する方式に切り替えたのである。耕地面積は豊富の百姓の実力に相応して決められたが、請け負った租税がきちんと納められるのであれば、その耕地をどのように分割して、どのような者に耕作させても良かった。そしてもう一つの変化は国司の役割である。田堵が契約に基づいて所定の年貢を納めるのであるから、国司はこれを取りまとめて中央政府に納めれば済むはずだが、一方で郡司職、郷氏職といった官職の私財化、荘園や私領の増加、「豊富の百姓」と貴族の結託による未墾地の囲い込みなど公領の減少が進む状況にあり、国司に「検田権」を与え、一国の土地管理を強化させると同時に一国の公領からの年貢総量を請け負わせる国務請け負い政策をとり始めていた。こうなると既得権益を侵害される郡司、郷氏、在庁官人、田堵等が国司の不法を訴えるケースが頻発していた。さらに十一世紀、院政が行われたころ、開発された耕地に周辺の公領を取り込んで、開発領主が中央の有力者に荘園として寄進し、さらにこの荘園を安定化させるため、権門勢家に再寄進するという念の入れようであった。立荘には院庁下文、もしくは民省符が必要であったが、国司が在職期間だけの国司免判も発給された。公領の当時の状況を説明するために荘園のことまで触れたが、律令制下に公領であった土地の状況も大きく変化した。これについては次稿で述べる。
                  ―黒子―
 
 

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−71)
朝廷が手をやいてきた南都(興福寺)北嶺(延暦寺)を幕府はその武力をもって制御する術を身に付けた。承久の乱後三上皇を島流しにして、天皇にもなったことがなかった守貞親王(後鳥羽上皇の兄)を後高倉院として治天の君にすえ、その子を後堀河天皇として即位させた。つまり天皇家の人事に介入するきっかけとなった。後高倉院は幕府の意向を汲んで公武融和に努めた(勤めさせられた)がその在位は短く、わずか二年後の貞応二年(西暦1223年)に他界された。しばらくは後堀河天皇がこの空席を補っていたが、天皇にもしものことがあれば皇統が途絶える危機にあった。そこで後堀川天皇が皇子がわずか二歳の時に天皇を譲位して上皇につき、四条天皇として即位させた。四条天皇即位については当時権勢をふるった藤原道家の娘の子でもある四条天皇に強制的に譲位させたとの説もないではないが、皇統維持を最優先にしていた朝廷および幕府は四条天皇即位について双方異存はなかったものと思われる。ところが後堀河上皇は四条天皇以外の男子に恵まれないまま崩御してしまう。そして四条天皇自身が十二歳の時、突然亡くなられた。一説に、廊下に蠟石を塗って女官たちが滑って転ぶのを楽しんでいたところ、誤って本人が転倒し、頭を強打したことが原因だとする説がある。四条天皇には子がいなかったので、後高倉院の皇統はわずか二十一年で断絶してしまった。皇嗣の選定にあたって、藤原道家は縁籍関係にある(忠成王は順徳上皇を父にもち、熱田大宮司家の藤原清季の娘を母に持つ。一方、道家は熱田大宮司家の娘で源頼朝の同母妹の娘を母に持つ)忠成王を天皇につけたいと願っていたが、保留して幕府の意向を打診したところ、幕府は忠成王が義時討伐に熱心だった順徳上皇の皇子であることで、天皇になれば順徳上皇の復帰が予測され幕府に悪影響が及ぶことを懸念して、鶴岡八幡宮に占ってもらったところ、土御門上皇の子の邦人王に吉と出たという理由で邦人王を天皇につけると返事をした。邦人王の選択は幕府独自のものであるような流れだが、邦人王の推薦人として土御門定通が、忠成王の推薦人として道家がそれぞれ幕府に働き掛けたとする説もある。なお、幕府の意向に反して、忠成王が天皇に即位するなら、即刻退位させる覚悟であった。誰が天皇に即位するかは幕府によって決められることに人々は衝撃を受けた。ついでながら義時の正室姫の前の子女は、朝時、重時、竹殿であるが、その竹殿が土御門定通の側室であるという事情もあった。
また、四代将軍頼経(道家の子)の縁籍でもある忠成王の即位は幕府内におけるパワーバランスがより将軍側に偏るきらいもあった。そして、泰時は頼朝の後落胤とする説もあり、だとすればこの皇嗣決定は泰時にとって相当精神的な葛藤があったのではないか。そのためかどうか、泰時の最後の大仕事が四条天皇崩御後の皇嗣決定となり、約半年後の仁治三年(西暦1242年)六月十五日死去した。正四位下、享年六十歳。
               ―黒子―
 

 

 

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