ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

(2)歴史

 開発予定地および開発予定地に関連のある周辺地等の歴史をたどってみることにした。また、当地は鎌倉市ではあるが、行政も議会も我々の種々の働きかけに対し所謂旧市街地に比べ、対応が冷たいと感じている。そこで行政区画としての玉縄の歴史にヒントがないか合わせて調べてみた。なお、鎌倉市の歴史については特に断らない限り、鎌倉市史 総説編(鎌倉市史編纂委員会編纂)に準拠した。なお、登場人物の名は良く知られている名で統一した。
 
 開発予定地の上部に位置する玉縄台には早期縄文時代からの遺跡が発見されている。海岸線が近くにあったことを伺わせる貝塚もあった。縄文後期、晩期に一時中断が見られるもののやがて弥生時代の遺物も発見されている。これは海退によって台地下の地域が水稲耕作に適するようになったからだと思われる。古墳時代および一部平安時代の遺物も発見され引き続き居住に適した土地であった。高台であるにもかかわらず湧水が豊富であることが関係しているのであろう。(鎌倉市大船山居遺跡発掘調査報告―相模湾に面した数少ない遺跡で本調査報告は鎌倉市古代遺跡調査報告第1号である)
 台地下の谷戸の一角には別の古墳時代の遺跡(横穴群)が発見され、鎌倉市の史跡に登録されている。
 奈良時代、相模国は正倉院文書の中の相模国天平七年(西暦735年)封戸租交易帳に足下、餘綾、足上、大住、御浦、高座、鎌倉、愛甲の八郡で構成されるとあり、ここに初めて鎌倉という地名が登場する。
 平安時代になると荘園制度が活発化するが、玉縄につながる文字が見えるのは、天養記という本の天養二年(1145年)の記録に玉輪荘として出てくる。所謂荘園であるが、領主や墾田地系なのか寄進地系なのかの記述がないようである。玉輪荘は相模国玉輪荘という事で国衙領である鎌倉郡の外であった。以後室町時代末期まで特別の出来事もなく歳月が流れた。
 玉縄の地を全国区にしたのが北条早雲である。早雲は小田原城を攻め落とし、当時鎌倉を支配していた三浦氏を放逐し鎌倉に入った。その頃鎌倉は相当荒れ果てていたようで、早雲は「枯るる樹にまた花の木を植えそえてもとの都になしてこそみめ」と詠んでいる。北条早雲を初代とする後北条氏は鶴岡八幡宮の造営に力を注ぎ、子氏綱の代にこれを果たしている。
 前後するが、永正九年(1512年)早雲は玉縄城を築城した。間もなく築城500年になるので、地元では記念事業を企画している。この城は難攻不落の名城で上杉謙信の軍勢が囲んだが守りぬいたこともあった。本丸を中心に要所要所に砦を構築し或いは切岸(垂直の切土)を配し攻めにくくしてあったのであろう。開発予定地はまさにそのような場所で下坪砦として国の埋蔵文化財包蔵地になっている。二の丸の存在はわかっているが、場所の特定が出来ていない。下坪砦と二の丸との関連を是非とも知りたいところである。また、玉縄城跡は本丸を含め学園建設や宅地造成のため多くの関連遺跡が破壊されてしまった。また、後北条氏の事に関しては2%しかわかっていないという説もある。そのような状況のなか、下坪砦は無傷で残っているのである。築城500年の要事業として是非保存をしなければならないと考える。
 鎌倉周辺十八か村(玉輪荘に属したと思われる岡本、城廻、植木、関谷の村々が含まれる)は大体後北条氏時代からは東郡の内であった。玉輪荘に属した村々が郡に属したということは、玉輪荘は既に解体されたことを意味しているのであろうか。
 約百年続いた後北条氏であったが、豊臣秀吉によって玉縄城、小田原城がその軍門に下り後北条氏は滅びた。そして玉縄城はほどなく廃城になって、下坪砦は忘れられた存在になった。
 江戸時代に入って鎌倉周辺十八か村は徳川四代将軍家綱の時に鎌倉郡の内になった。行政区画として郡村制が敷かれたのは太閤検地後であるから玉縄の地名はなくなるはずであるが、寛文(1661年〜)御朱印帳に相模国鎌倉郡玉縄郷として郷名で残っていたという。

―ここからは「かまくら子ども風土記」に町村合併の事が簡明に書かれているので、これを参照した。―
 
 明治時代に入ると廃藩置県が断行された。当初鎌倉郡は韮山県に属していたが、すぐ神奈川県になった。明治22年(1889年)町村制が施行され、鎌倉郡は東鎌倉村、西鎌倉村、腰越津村、小坂村(大船地区)、玉縄村(岡本、植木、城廻、関谷)、深沢村の六か村になった。明冶27年(1894年)東鎌倉村と西鎌倉村が合併し鎌倉町になった。昭和6年(1931年)腰越津村が腰越町になり、昭和8年(1933年)小坂村が大船町になり同年玉縄村を編入した。昭和14年(1939年)鎌倉町と腰越町が合併し鎌倉市が誕生した。戦後昭和23年(1948年)大船町と深沢村が鎌倉市に合併した。         
 昭和58年に下坪砦が国の埋蔵文化財包蔵地に登録された。
 
 冒頭で述べたように、旧市街地にくらべこの地区に対する行政および議会の対応は冷たい。鎌倉市制69年の中で、玉縄が加わって60年たつ。京都では、50年住まないうちはよそ者とされるらしいが、すでにそれを越えているのだからもとよりよそ者であるはずはない。確かに玉縄は450年もの間荘園で、鎌倉には属さない時代が長かった。だが荘園制度が解体され、ややあって鎌倉郡名を冠することになり、それから400年近くたつのである。ここがなぜ旧市街地とは別扱いされなければならないのか、歴史からはまったく見えてこない。

コメント

玉の輪荘

玉の輪荘で検索したら、ここに来ました。
鎌倉の地理に着いて書いています。
今は関谷、岡本、玉縄が気になっています。

鎌倉、まぼろしの風景
http://homepage.mac.com/kamekokishi/kamakura.html

玉の輪荘

亀子様のブログを拝見致しました。大変知識の豊富な事に感心しています。下坪砦に関してなにかお知りでしたらなんでも結構ですからご教示下さい。

関谷出身ですわかることなら教えます

下坪砦

何か遺構は何か有るのでしょうか?
よければ一度行きたいので場所も詳しく教えてください。

マサヤ犬様お尋ねの下坪砦

マサヤ犬様
下坪砦の埋蔵文化財包蔵地は玉縄台住宅地西側(玉縄五丁目)から俯瞰した斜面地一帯です。大部分樹木に覆われていて遺構らしきものは確認できません。わざわざおいでになる程ではないと思います。

マサヤ犬さまへの訂正とお詫び

十月二十二日付マサヤ犬様へのコメントに際し、件名を「マサヤ犬様お尋ねの件」とすべきところを「・・・・の下」としてしまいました。訂正してお詫びいたします。

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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