開発予定地の法規上のポイント
- 2009-01-13
- 23:14
3.(1)土地所有の歴史(その3−3)
弥生時代は紀元前400年から西暦300年迄だが、年代については諸説がある。水稲耕作が始まり、青銅器や鉄器が使われ始めた。縄文時代においても既に集落の形成が始まっていたが、弥生時代になると集落の性格が変化した。即ち土地と人を略奪から守るため防衛機能を付加しなければならなくなった。例えば、環濠集落や高地性集落がそれである。防衛機能の弱体な集落は侵略によって収穫物だけでなく土地も人も略奪されて私有化された。攻撃防衛能力の拡大が進み集団としての規模が大きくなると、国の成立が見られるようになった。その数が百余りもあったという記述が漢書に見える。その時期は前漢が楽浪郡を置いた後で夫々楽浪郡に朝貢したとある。新の時代にも交易があったことを貨泉(新の硬貨)の出土が裏付ける。後漢に入って西暦57年倭の奴国王が遣使し、光武帝から「印」を授かったことが後漢書の倭伝に記されている。江戸時代中期に福岡県志賀島で偶然百姓が「漢委奴国王」の金印を発見したが、これが光武帝から授けられた「印」であるとされている。この印の文字から倭の奴国王自ら後漢の冊封体制に入ったことを意味している。こうしておけば後漢から不利益を受けることはなく、更に言えば倭の他の国に対して後漢が後ろ盾になっていることを示したかったのではなかろうか。同じく後漢書の倭伝には西暦107年後漢の安帝に請見を得るため倭国王が生口(奴隷)160人を献じたとある。なんらかの見かえりがあったと思うが、それにしてもいきなり倭国王である。50年の間に例えば奴国が周囲の国々を吸収するか或は支配して倭国と呼ばれるにふさわしい状況になったのだろうか。後漢末期には倭の諸国の朝貢の対象が公孫氏が設立した帯方郡経由の遼東にかわった。朝鮮半島との関係では魏志東夷伝に弁辰に鉄を産出するところがあって韓、濊、倭が鉄を採掘していると言う記述がある。また魏志倭人伝他の史書によれば倭国は大いに乱れたとある。鉄の採掘が大乱となにか関係があるのであろうか。いずれにしてもこの大乱をきっかけとして後に邪馬台国女王卑弥呼の共立による倭国体制が成立することになる。中国の三国時代には倭国にとって魏の影響力が大きく引き続き魏の出先機関である帯方郡を通じて魏に朝貢した。魏志倭人伝によれば西暦239年卑弥呼が魏に遣使し「親魏倭王」の金印を授かった。この時邪馬台国所在論争の証拠物件と推定されている銅鏡100枚も授かっている。奴国の場合と同様女王率いる倭国が魏の冊封体制に入ったことを意味する。倭国を構成する各国の王は土地と人民の支配権を保持しながら、女王に従属した。各国においては身分に応じて土地と人民を所有したものと思う。倭国に入らなかった邪馬台国の隣国の狗奴国と戦いが勃発した際、魏は女王卑弥呼に詔書と黄幢(軍旗)を与え、また檄を作って告諭した。魏の冊封体制の一面を見る。戦闘の結果は邪馬台国にとって不利なものであったらしい。女王の死後、男王が倭国王についたが、またも倭国内で相攻伐が繰り返される戦乱を招き、再び卑弥呼の親族の十三歳の少女壱与を女王に共立して治まった。晋書によれば266年壱与は晋に朝貢している。以上が弥生時代の出来事である。 黒子
弥生時代は紀元前400年から西暦300年迄だが、年代については諸説がある。水稲耕作が始まり、青銅器や鉄器が使われ始めた。縄文時代においても既に集落の形成が始まっていたが、弥生時代になると集落の性格が変化した。即ち土地と人を略奪から守るため防衛機能を付加しなければならなくなった。例えば、環濠集落や高地性集落がそれである。防衛機能の弱体な集落は侵略によって収穫物だけでなく土地も人も略奪されて私有化された。攻撃防衛能力の拡大が進み集団としての規模が大きくなると、国の成立が見られるようになった。その数が百余りもあったという記述が漢書に見える。その時期は前漢が楽浪郡を置いた後で夫々楽浪郡に朝貢したとある。新の時代にも交易があったことを貨泉(新の硬貨)の出土が裏付ける。後漢に入って西暦57年倭の奴国王が遣使し、光武帝から「印」を授かったことが後漢書の倭伝に記されている。江戸時代中期に福岡県志賀島で偶然百姓が「漢委奴国王」の金印を発見したが、これが光武帝から授けられた「印」であるとされている。この印の文字から倭の奴国王自ら後漢の冊封体制に入ったことを意味している。こうしておけば後漢から不利益を受けることはなく、更に言えば倭の他の国に対して後漢が後ろ盾になっていることを示したかったのではなかろうか。同じく後漢書の倭伝には西暦107年後漢の安帝に請見を得るため倭国王が生口(奴隷)160人を献じたとある。なんらかの見かえりがあったと思うが、それにしてもいきなり倭国王である。50年の間に例えば奴国が周囲の国々を吸収するか或は支配して倭国と呼ばれるにふさわしい状況になったのだろうか。後漢末期には倭の諸国の朝貢の対象が公孫氏が設立した帯方郡経由の遼東にかわった。朝鮮半島との関係では魏志東夷伝に弁辰に鉄を産出するところがあって韓、濊、倭が鉄を採掘していると言う記述がある。また魏志倭人伝他の史書によれば倭国は大いに乱れたとある。鉄の採掘が大乱となにか関係があるのであろうか。いずれにしてもこの大乱をきっかけとして後に邪馬台国女王卑弥呼の共立による倭国体制が成立することになる。中国の三国時代には倭国にとって魏の影響力が大きく引き続き魏の出先機関である帯方郡を通じて魏に朝貢した。魏志倭人伝によれば西暦239年卑弥呼が魏に遣使し「親魏倭王」の金印を授かった。この時邪馬台国所在論争の証拠物件と推定されている銅鏡100枚も授かっている。奴国の場合と同様女王率いる倭国が魏の冊封体制に入ったことを意味する。倭国を構成する各国の王は土地と人民の支配権を保持しながら、女王に従属した。各国においては身分に応じて土地と人民を所有したものと思う。倭国に入らなかった邪馬台国の隣国の狗奴国と戦いが勃発した際、魏は女王卑弥呼に詔書と黄幢(軍旗)を与え、また檄を作って告諭した。魏の冊封体制の一面を見る。戦闘の結果は邪馬台国にとって不利なものであったらしい。女王の死後、男王が倭国王についたが、またも倭国内で相攻伐が繰り返される戦乱を招き、再び卑弥呼の親族の十三歳の少女壱与を女王に共立して治まった。晋書によれば266年壱与は晋に朝貢している。以上が弥生時代の出来事である。 黒子





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