ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その6−4)
蝦夷地への領土拡大戦略の続きを記そう。西暦737年、奥羽連結のための連絡路を作ろうとして大野東人(あずまんど)が6000の兵を引き連れて蝦夷地に入った。戦いでは勇名を馳せた(西暦740年、藤原広嗣の乱では持節大将軍をつとめた)東人であったが、挑発的な行動は避け、敢えて戦いをせず、帰順した蝦夷には地位に応じた処遇をして共存する姿勢を示した。一方では開発の手を緩めることなく着々と領地拡大の策を進めたのである。律令国家になった時は積極的な武力行使が求められたが、明らかな方針の転換である。この方針は代々引き継がれていくのである。
その後、西暦750年代、時の権力者藤原仲麻呂も蝦夷地の開発を積極的に推進した。息子の朝獦(あさかり)を陸奥守に任命し、西暦758年陸奥国桃生城、西暦759年雄勝城を築かせた。多賀城から出羽に至る道の確保を図るための策とされる。更に、仲麻呂は、投降して来た蝦夷には田地を与え、彼らを柵戸として定着させる方針をとった。投降してきた首長は郡司として任命したりもした。
しかし、開発が進めば蝦夷は追いつめられる。再び平安初期まで泥沼の軍事対決の時代に入るのである。宝亀一年(西暦770年)、以前から帰順していた蝦夷の首長宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)が反いた。他の蝦夷たちもこれに呼応し、桃生城に侵入し、反乱は出羽にまで拡大した。この時、陸奥国鎮守将軍であった大伴駿河麻呂は、大軍によって蝦夷を攻略しようとしたが、病に倒れた。
その後、蝦夷征討に当たったのが紀広純である。彼は蝦夷最大の拠点である胆沢(いざわ−現在の水沢市)を攻略しようとしていた。伊治城は道鏡政権下に築かれた城であるが、服属した蝦夷の首領である呰麻呂は郡大領(郡司の最高位)に任ぜられていた。呰麻呂は表面は服属していても、心中は政府の蝦夷征討を良しとはしていなかったであろう。またその上、牡鹿郡大領道嶋大楯から常々夷俘(いぶ)として侮辱されることを怨んでいた。
 西暦780年、紀広純が胆沢への前進基地として覚鱉城(かくべつじょう)を築くため伊治城へ入った折に事件は起こった。呰麻呂は大楯を、次いで広純を殺害したのである。
 直ちに藤原継縄を将軍とする征討軍が任命されたが、戦いの準備もできぬままに終わった。次に任命された藤原小黒麻呂の征討軍も、糧秣も確保できず、蝦夷のゲリラ軍に悩まされ、進撃は出来なかった。桓武即位後、政府は大伴家持を持節大将軍とする新たな征討計画を建てたが、長岡京造営などにより中止された。これらの反乱の鎮圧は坂上田村麻呂の登場を待たなくてはならない。
                黒子

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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