ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その7−17)
朝廷は寛徳二年(西暦1045年)荘園整理令を発した。その内容は前任の国司の任期中およびそれ以降に立荘された荘園は全て停止するというものである。十年後の天喜三年(西暦1055年)、さらにその十年後の治暦元年(西暦1065年)に、寛徳以降の新立荘園の停止令が発せられているので、それまでに出された荘園整理令は効果が少なかったことを示している。時代背景を見れば、藤原道長が去ってその子頼通の代になっている。また、国司の国務請負により国司の権限が増して荘園や私領の収公圧力が高まっていたから、これを嫌って摂関家に荘園を寄進する動きが顕著になり、急速に摂関家が荘園を増やしていた。荘園の乱立が国司の行動に原因があるから、ここをたたけば公領が回復するものとふんだが、荘園を支配している者が摂関家では荘園整理令の効果が上がらないのは無理もないことである。ところが、延久元年(西暦1069年)、後三条天皇親政下、摂関家の勢力を弱め、天皇家の権威回復を狙った荘園整理令が発せられた。中央に記録荘園券契所を設け、従来の国司任せではなく、朝廷自ら荘園審査にのり出したのである。摂関家の政所政治が破綻をきたしていたから、後三条天皇は摂関家になんの遠慮もなく摂関家に打撃を与える事が出来た。後三条天皇は律令国家の再建を目指したのではなく、あくまでも天皇家の権威を高めるためなので、収公した荘園を公領に戻す一方で、一部勅旨田にもしている。ところで、延久の荘園整理令では荘園が公領との関係に於いてあいまいにされてきた部分にもメスを入れることになった。それは、?浮免という場所は固定されてないが荘園化した土地?公領を耕作していながら荘園に住んで、公領に出作するいわゆる出作加納田になっている土地を荘園と主張し官物を払わない土地?公験もないのに公民と結託して荘園と称している土地、である。これらの土地が収公され、公領と荘園の領有が明確化されることになり、ここでもまた律令体制が後退する画期となった。
                黒子

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