ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−71)
朝廷が手をやいてきた南都(興福寺)北嶺(延暦寺)を幕府はその武力をもって制御する術を身に付けた。承久の乱後三上皇を島流しにして、天皇にもなったことがなかった守貞親王(後鳥羽上皇の兄)を後高倉院として治天の君にすえ、その子を後堀河天皇として即位させた。つまり天皇家の人事に介入するきっかけとなった。後高倉院は幕府の意向を汲んで公武融和に努めた(勤めさせられた)がその在位は短く、わずか二年後の貞応二年(西暦1223年)に他界された。しばらくは後堀河天皇がこの空席を補っていたが、天皇にもしものことがあれば皇統が途絶える危機にあった。そこで後堀川天皇が皇子がわずか二歳の時に天皇を譲位して上皇につき、四条天皇として即位させた。四条天皇即位については当時権勢をふるった藤原道家の娘の子でもある四条天皇に強制的に譲位させたとの説もないではないが、皇統維持を最優先にしていた朝廷および幕府は四条天皇即位について双方異存はなかったものと思われる。ところが後堀河上皇は四条天皇以外の男子に恵まれないまま崩御してしまう。そして四条天皇自身が十二歳の時、突然亡くなられた。一説に、廊下に蠟石を塗って女官たちが滑って転ぶのを楽しんでいたところ、誤って本人が転倒し、頭を強打したことが原因だとする説がある。四条天皇には子がいなかったので、後高倉院の皇統はわずか二十一年で断絶してしまった。皇嗣の選定にあたって、藤原道家は縁籍関係にある(忠成王は順徳上皇を父にもち、熱田大宮司家の藤原清季の娘を母に持つ。一方、道家は熱田大宮司家の娘で源頼朝の同母妹の娘を母に持つ)忠成王を天皇につけたいと願っていたが、保留して幕府の意向を打診したところ、幕府は忠成王が義時討伐に熱心だった順徳上皇の皇子であることで、天皇になれば順徳上皇の復帰が予測され幕府に悪影響が及ぶことを懸念して、鶴岡八幡宮に占ってもらったところ、土御門上皇の子の邦人王に吉と出たという理由で邦人王を天皇につけると返事をした。邦人王の選択は幕府独自のものであるような流れだが、邦人王の推薦人として土御門定通が、忠成王の推薦人として道家がそれぞれ幕府に働き掛けたとする説もある。なお、幕府の意向に反して、忠成王が天皇に即位するなら、即刻退位させる覚悟であった。誰が天皇に即位するかは幕府によって決められることに人々は衝撃を受けた。ついでながら義時の正室姫の前の子女は、朝時、重時、竹殿であるが、その竹殿が土御門定通の側室であるという事情もあった。
また、四代将軍頼経(道家の子)の縁籍でもある忠成王の即位は幕府内におけるパワーバランスがより将軍側に偏るきらいもあった。そして、泰時は頼朝の後落胤とする説もあり、だとすればこの皇嗣決定は泰時にとって相当精神的な葛藤があったのではないか。そのためかどうか、泰時の最後の大仕事が四条天皇崩御後の皇嗣決定となり、約半年後の仁治三年(西暦1242年)六月十五日死去した。正四位下、享年六十歳。
               ―黒子―
 

 

 

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−70)
 佐々木氏と比叡山との争いで、比叡山側に死者が出たことで幕府は御家人側の佐々木高信等を流刑に処したうえで、比叡山側の首謀者の摘発を主張した。本稿はその続きになる。同じく嘉禎二年(西暦1236年)七月十七日条を見ると、佐々木近江二郎左衛門尉高信と日吉社の神人の争いによって神輿を担ぎ出した首謀者を召し出されるよう、武州(北条泰時)が頻りに申されていた。しかし山徒が拒否して蜂起したので、召されるべきではないとの事について、今日、重ねて御審議が行われ、座主宮(尊性法親王・・・後高倉院の皇子。貞永元年八月、天台座主に再任されていた。)に申されたという。「高信や神輿を防ぎ止めようとした勇士らは、衆徒の訴訟によって流刑に処されました。ここで追って首謀者を召されるのは、もっぱら後世を戒めるためです。そこで両門以下の交名を書き出したところ、俄かに無道の衆会(しゅうえ・・衆会)に及びました。(そこで)たとえ堂社に閉籠しても自業自得であるとの評議を行いました。情けがあれば、(山僧らに)諷諌を加えられますように。」と仰せ遣わされた。また「承久の乱で京方となった者は、諸社の別当・祠官に至るまで、相応の罪科をそれぞれ免れなかった。しかし、山僧の首謀者は、傍輩の罪科を超えたとしても、ついに赦した。寛大な処置を施したものである。今度の首謀者についてはまずもってその罪を逃れ難い。」と、御教書に記されたという。そしてその後の経過は、嘉禎二年(西暦1236年)九月九日条によれば、京都の使者が(鎌倉に)到着した。これは去年七月二十三日、日吉者の神輿が京に下った時に防ぎ留め奉ろうとした武士の右衛門尉(足立)遠政と、喧嘩の首謀者である近江次郎左衛門尉(佐々木)高信らについては、宣下の上で関東の御計らいとして、山門の不満をなだめるため流罪に処されていた。山徒の首謀者については、またその身柄を召しだして後世の戒めとされたいと奏聞されたので、(日吉)七社の神輿を造替えした後に、その首謀者を召された。すると、先月八日、新造の神輿を中堂に振り上げ奉り、訴え申したので、同二十八日に勅免の綸旨が下されたと報告されたという。
なんと、比叡山側の首謀者を拘束したが、これを不服として神輿を担ぎ出したので、朝廷が赦したというのである。ここから先はどのような経過をたどったのか不明だが、吉川弘文館、現代語訳「吾妻鏡」10の解説文によれば、幕府が比叡山側の張本召し出しで嘉禎三年(西暦1237年)六月末に衾宣旨の発給にこぎつけている。衾宣旨とは朝廷が五畿七道に、すなわち全国に指名手配をしたと思えばよい。天皇の御言葉によって首謀者が無罪放免になったが、幕府の強い働きかけによって、すなわち今風にいえば幕府が上告したため上皇が宣旨という形で最終判決を下したものであろう。幕府の寺社に対する影響力は格段に増したと考えるべきだと思う。
なお、興福寺の春日社に対して、比叡山は日吉社が神仏混淆の姿である。
                   ―黒子―
 
 
 

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−69)
 比叡山と佐々木氏の衝突事件の続きを記そう。本件は佐々木氏が地頭であるところから幕府がどのように計らったかをみてみると、同じく嘉禎元年(西暦1235年)七月二十九日条に、去る二十三日に比叡山の衆徒が三社(十禅師:比叡山の東麓の坂本に所在する日吉社の上七社の一つ。現、樹下神社。客人(まろうど):日吉社の上七社の一つ。現、白山姫神社。八王子:日吉社上七社の一つ。現、牛尾神社)の神輿を洛中に動かし奉った。これでは近江国高島郡田中郷の地頭佐々木次郎左衛門尉高信の代官と日吉社の社人らが喧嘩を起こしたためである。そうしたところ神輿が入洛する時、いつものように官軍が留めたので、宮人が疵を受け、死に至ったと訴えてきた。そのためその時に先陣していた者たちの中で右衛門尉足立遠政・兵衛尉足立遠信らを流刑と定められた上、高信を鎮西に配流するよう六波羅に仰せ遣わされた。神輿の入洛は先例があるとは言え、今度の経過はほとんど昔の狼藉を超えている。そこで首謀者を召し出され後人を誡められるため、さほどの重罪ではないといってもまず御家人らを山徒の不満の通りに相応の処罰を科されたという。そのことについて条々の審議があり、奏聞するために今日御教書を二条中納言定高卿に遣わされた。「田中郷の地頭である高信の代官と住民との喧嘩について、先日北条重時・北条時盛が事情を記してきたので、両方を召して対決を行い処置されると貫首に言上しました。まったくこれは高信を贔屓するものではありません。高信に罪科があれば、どうして処置を加えないことがありましょうか。しかし神人の訴訟が度重なっているところに、是非を糺明しなければ、傍輩が勝ちに乗じて、濫りな訴えが絶えることはないでしょう。そのためそのことを申しているだけです。次に衆徒については、一方では聖断を仰ぎ、一方では関東の計らいを待つべきところ、たちまち神輿を動かして天皇を驚かし申し上げたのは、理不尽な悪業であり、言語道断の次第です。首謀者については、早くその身柄を召し出されるように。」などの内容が記されていたという。と記されている。比叡山に対しては承久の乱では幕府は殆ど頼りにされなかった背景を踏まえ、影響力を育てるためそして「道理の押すところ」を貫く決意がにじんでいる。                                     
                   ―黒子―
 
 
 
 
 
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開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−68)
石清水八幡宮と興福寺の荘園の境界争いから騒乱に発展したが、幕府の武力によってこれを鎮圧した。実はもう一件、ほぼ同時期に寺社に関連したもめごとが発生している。それは比叡山と佐々木氏との衝突である。佐々木氏といえば頼朝が挙兵する際佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)の到着が遅れたことで頼朝は山木攻めを遅延せざるを得なくなったことを大変嘆いた話が有名である。佐々木氏は宇多源氏で保元、平治の乱でも義朝側について戦っている。この兄弟達は流人の頼朝を何くれとなく世話をしていることから頼朝の厚い信頼を得ていた。ところが本領が近江であるため、比叡山との確執・衝突が絶えず、承久の乱では、多くの佐々木氏が比叡山に影響力の強い朝廷側についている。敗北した定綱の嫡子、広綱は弟で幕府側についた義時の女婿、信綱に斬首され、以後信綱が嫡流になっている。
ではどのような騒乱があったのか、例によって吉川弘文館・現代語訳・吾妻鏡10を繙くと、嘉禎元年(西暦1235年)七月二十七日条に、今日、六波羅の飛脚が鎌倉に到着した。これは近江入道虚仮(佐々木信綱)の子息である次郎左衛門尉高信が日吉社の神人を殺害したため、山徒がこのところ不満を訴えていたが、聖断が遅いと称して去る二十三日に日吉三社の神輿を動かし奉った。勅旨を承ったため勇士等を近江河原口に遣わして神輿を留め奉ろうとしたので、武士と衆徒双方にけが人が多く出たという。その発端を調べると、近江国高島郡には散在する嘉輿丁神人(神輿などを担ぐ神人)が六十六人いた。そうしたところ山門(比叡山の異称)の計らいとして、その神人の内七人を改めて公役を勤仕している百姓をその替とした。このため地頭の虚仮は新儀は止めて元のようにされるよう、奉行の親厳律師(山門の僧侶で駕輿丁神人の事を奉行していた。)に掛け合った。その決着がつく前に(虚仮は)急用があって関東に参った。そこに高信が先に勢多橋の行事として行き向かい所役を催促した時、新神人はこれに対抗するため、あらかじめ宮司法師(神社に所属して、種々の雑用を務める下級の僧侶。日吉社は延暦寺の鎮守であり、神仏習合によって僧侶も神社に仕えていた。)を語らって住宅で高信の使者に殴りかかり、喧嘩となったという。
地頭にとって百姓の数が減るということは年貢などの減少に直結しているだけに、嘉輿丁神人にされては困るのである。
                 ―黒子―
 

 

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−67)
 解決済みかと思われたが、またもや興福寺側の衆徒が騒いでいるようである。例によって吉川弘文館の「吾妻鏡現代語訳10」を見ると、嘉禎二年(西暦1236年)七月二十四日条に、南都が騒然としているので、在京人や近国の者は、一族を動員して警護の忠節を尽くすよう、以前に命じられていた。一族が従わないと、このところ諸家から訴えがあるので、今後は大番以下のこのような役は、速やかに一門の家督に従うよう、今日、重ねて定められた。図書左衛門尉清原満定が奉行した。とある。さらに同じく、嘉禎二年(西暦1236年)八月二十日条に、南都の衆徒がまた蜂起したとの飛脚が鎌倉に到着したので、これを鎮めるため、佐渡守後藤基綱が上洛の使節を承った。そこで今日、門出した。明日の明け方に出発するという。とあり、その効果は嘉禎二年(西暦1236年)十月二日条に、六波羅の飛脚が鎌倉に到着して申した。「先月中旬頃から南都の衆徒が蜂起し、城郭を構えて合戦を企てている。六波羅が使者を遣わして宥めているが、ますます(勢いを)増している」。ということなので現地はお手上げ状態のようだ。そこで幕府は強権を発動する。嘉禎二年(西暦1236年)十月五日条に、南都の騒動を鎮めるために暫く大和国に守護人を置き、衆徒が知行する荘園を没収し、ことごとく地頭を補任した。また畿内近国の御家人らを動員して、南都への道路を塞ぎ、人々の出入りを止めるよう議定があり、印東八郎・佐原七郎(光兼)以下、特に武勇に優れた力のある人々を選んで派遣した。「衆徒がもしそれでも敵対するならば、決して赦すことなく全て討ち滅ぼすように。」という。またそれぞれ死を覚悟するよう、関東の武士には直接よくよく命じられ、京畿(の武士)については、その旨を六波羅に命じた。また南都の所領の所在について全てはわからなかったところ、武蔵得業隆窓が密かにその注文を佐渡守(後藤)基綱に与え、基綱が関東に送り進めたので、地頭が新たに補任されたという。そこで嘉禎二年(西暦1236年)十月六日条に早速、初めて、大和国に、大和国守護職などの御下文を六波羅に遣わす。とある。この作戦の効果を順に見ていくと、嘉禎二年(西暦1236年)十一月一日条、六波羅の飛脚が鎌倉に到着した。南都の衆徒は先月十七日に城郭を破却し、退散した。これは所領に地頭が補任され、関を塞がれたので、兵糧の手立てを失い、人数を集められないためという。嘉禎二年(西暦1236年)十一月十三日条、六波羅の飛脚が鎌倉に到着。南都の衆徒の蜂起はすでに収まり、去る二日から僧綱以下は寺に帰って、寺の門を開き、仏寺を行っているという。嘉禎二年(西暦1236年)十一月十四日条、南都のことについて審議が行われた。衆徒が静まったので、大和国の守護・地頭職を停止し、元の通り寺家につけられるという。嘉禎二年(西暦1236年)十二月二十九日条、佐渡守後藤基綱が京都から鎌倉に参り、南都が静まった事情を申し入れた。「このことについての内外の計略は、全て武蔵得業隆円の忠節によるものです。」と申した。その旨は、六波羅の駿河守北条重時の去る十一日の文書に記されているという。 幕府の武力の前では神輿とか神木を押し立てての強訴が通用しなかった。寺社の一角である南都を力ずくでも屈伏させた意義は大きかったし、幕府としての自信につながったはずである。     ―黒子― 
 

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