ここだって鎌倉だ!断ち切るな関谷・玉縄みどりの輪 

「連続開発に脅かされる市周縁の暮らしと歴史」 大船駅付近の玉縄、関谷をご存知ですか? JR大船駅から大船観音横の通りの坂を登ると緑の多い住宅地があります。

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3.(1)土地所有の歴史(その8−44)
義時の後継者探しの続きを記そう。
三男は朝時と同腹の重時で建久二年(西暦1198年)六月六日誕生。ただ、元服の記録がないらしい。十歳のころ義時と離婚して源具親に再嫁していた実母が死去している。元服はこれより後と思われるが、少年時代は実母が離婚、死亡という不幸な出来事が続いた。ことによると重時の「重」は畠山重忠の「重」ではなかったかと推理してみた。畠山氏滅亡が西暦1205年であるから七、八歳で元服すれば可能だ。ところが兄朝時の元服(西暦1206年)より早くなってしまうので可能性はないだろう。吾妻鏡は畠山重忠なる人物を美化して記述しているという。義時は父時政の陰謀で義弟(妹婿)であった重忠を討ってしまったが鎮魂の意をこめて重時の名を残した。とこんな風に考えたのだが。
四男は有時(仮名:通称の意で六郎)である。正治二年(西暦1200年)五月二十五日誕生。母は側室なので庶子であった。義時が正室姫の前と離婚する前である。義時葬儀の序列は兄弟の中で最後尾に位置づけられた。
最後の妻は正室の伊賀の方(伊賀朝光の女)でその第一子が五男政村(仮名四郎)である。今回の騒動で伊賀の方が次期執権にしたいとされていることで政子から疑惑の目を向けられた張本人である。元久二年(西暦1205年)六月二十二日誕生。建保元年(西暦1213年)十二月二十八日元服。三浦義村が烏帽子親である。義時死去時二十歳。
六男は実義(政村の同母弟、仮名五郎)で承元二年(西暦1208年)誕生。建保二年(西暦1214年)元服。義時死去時十七歳。
 義時の子息の経歴を調べてきたが、もう少し視野を広げて、北条氏の中における義時の生い立ちも調べる必要を感じている。義時の後継者として何を引き継ぐのかを明確にしてこなかったからだ。
 義時の父、北条時政は桓武平氏と言われているが、系譜ははっきりしてないらしい。
妻は伊東祐親の娘他で後妻が牧宗親の娘である。先妻達との間に記録に残っている限り三男四女、後妻との間に一男五女をもうけている。先妻との間に長男三郎宗時、四郎義時、五郎時房が、長女は政子で他に三人の娘がいたことになる。ここで不思議に思うことは長男なのに仮名が三郎であることだ。太郎、次郎がいたらしいが、場合によっては太郎、次郎を空席にしてもっと良い条件の妻に巡り合えることを願ってのことだとも考えられる。それはさておき、頼朝挙兵時は三郎宗時が嫡男の位置づけであった。石橋山の戦いで敗走するとき、時政―四郎義時と三郎宗時との二手に分かれておちて行ったことからもわかる。三郎宗時は討ち死にを遂げ、この時点で時政の息子は四郎義時と五郎時房(当時六歳)だけになっていた。ここからは年号を西暦で表示し時系列で出来事を見てゆくことにする。
1180年頼朝は石橋山の戦いの危機を乗り越え安房に渡って三浦氏と合流し、上総広常、千葉常胤の協力を得ると房総半島を北上し、武蔵では葛西清重、足立遠元さらに一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長らを従え、鎌倉に凱旋した。                    
                   ―黒子―

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8−43)
 義時の後継者(家督相続人)が誰だったのか、残された息子達一人一人についてその経歴や出来事を調べてみよう。
泰時は寿永二年(西暦1183年)長男として誕生したが、出生のいきさつについては前稿で記述したので省略する。ここで突然であるが頼朝時代にタイムスリップしてしまうことをお許し願う。頼朝は幕府に集まった人たちを、最上位に源氏の血をひく門葉、頼朝の寝所を警護する家子、その他を侍(時政は侍のランク)の三ランクに分けたが、義時は家子専一つまり家子のトップであった。その義時の長男幼名金剛が十歳のころ御家人多賀重行が金剛とすれ違う際、下馬の礼を取らなかったことを頼朝が咎める出来事があった。金剛は無礼はなかったと重行きをかばったが、頼朝は許さず所領を没収し、金剛には褒美に刀を与えた。頼朝の外戚である北条氏、なかんずく義時は家子専一であり、その子金剛であろうと下馬の礼を取ることが当然であるというのが頼朝のポリシーであったのだ。その金剛が建久五年(西暦1194年)二月二日、十三歳で元服をするにあたり、頼朝自ら烏帽子親を引き受け、諱名を自分の頼と北条氏の通字:時を取って頼時と命名している。義時流が将来の鎌倉幕府の中で門葉に次ぎ御家人のトップであり続けるようにとの期待と動機づけがあったのではないだろうか。しかし、時期や理由は不明だがなぜか泰時と改名している。源家(頼朝の家系)断絶を推進する義時にとってたとえ烏帽子の契りでも抹殺する必要があったのだろうか。だとすれば御家人の一部に頼朝を慕う気持ちが強かったし、義時自身そうだったに違いない。しかし、自らの可能性を自覚し敢えて鬼になったと解釈したい。政子は泰時をどう見ていたのだろうか。義時逝去の知らせを受けて、鎌倉に下向した際、泰時は義時の遺跡の荘園の相続案を政子に事前に示していたが、この案を見た政子は「嫡子(泰時)の分が大層不足しています。どうしたことでしょう。」と言った。これに対し泰時は「執権を承った身としては所領は多くは望みません。弟たちに与えます」。と答えた。このやり取りで政子は泰時こそ義時の家督相続人であると認識していたのだ。
次は義時の二男朝時である。建久四年(西暦1193年)の生まれで母(即ち義時の妻)は比企朝宗の息女で才媛の誉れが高く、頼朝お気に入りの大倉御所の女房姫の前で、正室であった。比企氏の乱の後、義時と離婚するが、かなり多くの比企氏の所領を朝時が引き継いでいるのに時政が目をつけ北条本家の家督相続人にしたいと考えていたらしい。時政の名越邸を譲られていることがその査証ではないか。建永元年(西暦1206年)十月、十三歳で元服している。建暦二年(西暦1212年)五月七日、女性問題で実朝の逆鱗に触れ、義時は義絶して蟄居を申し渡し、嫡男の資格を剥奪してしまった。そのことで名越流を創設することになったという。但し、和田合戦をきっかけに幕府に復帰した。承久の乱では北陸道の大将軍としても活躍している。しかし、泰時は勿論弟の重時にも先を越され、義時からよく思われていなかったことが窺われる。義時の葬儀の参列者の序列は、朝時、重時、政村、実泰、有時であったので、嫡子への復帰があったとも考えられる。
                  ―黒子―

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玉縄・関谷の緑を守る為、様々な方へ情報を提供しアドバイスを頂いたりしながら、この地域を守っていこうという動きで始めました。
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